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寺田俊郎さん(カフェフィロ会員/上智大学教授)のお話【第21回東京メタ哲学カフェ(2018年6月3日)】

〈テーマ〉 哲学対話・市民社会・政治

 

自己紹介をさせていただきます。そうですね…いろんなところで哲学的な対話を試みています。ここにきておられる方に一番馴染みがあるのは、神保町でやっている哲学カフェですね。ほぼ月にいっぺん開いております。

(神保町の哲学カフェをたまたま目撃した人が本日参加しているのを知って)ちょっと嬉しかったです。たまたま隣の席に居合わせた方が興味を持って来て下さる。街のカフェでやっているので、そういう風に、何かやっているな?って見て下さって、何だろう?と、面白そうだなと興味を持って来て下さるのは1番嬉しいですね。でも残念ながら今まであんまりそういう方はいらっしゃいませんでした。大抵は皆さん自分で探し求めて、インターネットで探し当てて来てくださるとか、人づてに聞いて来て下さることがほとんどでしたね。その場に居合わせてっていうのは本当に嬉しいです。その神保町のカフェ、一般の哲学カフェというのでしょうか?主に大人の方々が、でも哲学の専門家ではない方々が来られるカフェですね。

そうですね…東京で初めてもう15、6年になってしまいました。元々僕は関西に住んでおりましたので、関西で始めたのが、2,000年頃ですね。始めた頃はこんなに哲学カフェが人気が出るとは思っていませんでした。ブームという程ではないですけど、いろんな方がいろんな所でやっておられて、関心を持ってやっておられて、メタ哲学カフェまで存在するという。

メタっておそらく「哲学カフェについての哲学カフェ」という意味の「メタ」だとは思いますけど、ギリシャ語の接頭辞「メタ」には「後で」という意味がありますよね。「哲学カフェの後で」…、哲学カフェの「最新の形態」という意味もあるかもしれませんね。でもいずれにせよ、こんなに哲学カフェに関心を持っている方が交流する場があるという事は、本当に驚きでもありますし、嬉しい事でもあります。

あと、僕の哲学的な対話の活動というと、子どもとするということがあります。中学校はあまりないですが、小学校とか高等学校とか、そういう所に出かけて行って、一緒に哲学的な対話をするという。これは主に教育的な目的があるのですけど、単に教育的な目的というだけではなくて、ひとつの哲学的な対話の形態として面白いということがあると思っています。

子どもとする哲学対話は長いこと続けてきている訳ですが、最近では企業に行って哲学対話をするということも試みています。社員研修とかそういう場で企業人と哲学対話をするというか、ビジネスパーソンと哲学対話をするというか…なかなか面白いですね。仕事の場というのは哲学的問題の宝庫なんだなぁという感じがします。そういうことを通じて、なんていうんですかね…日本の企業が良くなるなんて、そんな大それた事は考えておりませんけれども、少しでも人々が働く場にも哲学的な文化が育てば良いなぁぐらいには思ってやっております。

という訳でいろいろな場所で哲学対話というのを試みてきました。本業は大学の哲学科で哲学を、「学術としての哲学」を教えるということなんですけれども。今日の話題も少し関係あるかもしれませんが、僕の中では学術としての哲学と、こうやって街の中で、学校で、或いは企業でする哲学というのは同じことなんですね、同じことだと思ってやっています。

今日は「哲学対話・市民社会・政治」ということでお話ししますが、この会に初めて招いて頂いたのが丁度一年前でしたよね。その時には、僕の哲学的対話の活動としてやってきたことをお話しして、「哲学カフェのこれまでとこれから」という感じでお話ししましたかね。

その間にですね、政治関係あるいは市民社会関係で哲学的対話の話をするという機会が何回かありまして、一回は昨年10月に「哲学プラクティス連絡会」でです。「哲学プラクティス」というのは、哲学カフェも、子どもの哲学も、企業の哲学も、全部含めた哲学的対話の総称ですけれども、それの活動する人達が集まって意見交換をする会が1年に1回あります。そこでシンポジウム「哲学対話と市民社会」というテーマでお話をして、政治学者の中野晃一さんと、それから学生団体のシールズで活躍していた大学院の方、3人でシンポジウムをしまして、たくさんの聴衆の方が来られました。今日お話しすることは、その時にお話しした事に、ちょっとその後に考えた事を少し付け足したような、そういうお話しです。ひょっとして、連絡会で話を聞いた方があれば、重複するところが大分ありますけれど、それはご容赦下さい。

それともう一回の機会というのは、3月にこの会場でですね、政治に関する意見交換会というのをしました。これは、やっぱり色々なところで哲学的な対話をやっている人達がですね、最近の政治の動向を見ていると、対話は必要ないという態度が非常に横行していると…。で、これは良くないことだと考えて「そういう対話を否定するような政治と、我々の対話活動の関係について考えたい」というリクエストがあったものですから、僕も仲間に入って4人で企画をして、ここでやってみたのですが、なかなか難しかったですね。まあテーマが漠然とし過ぎていたということもありますけれども。しかし、こういう対話活動をやっている人の中にも、そういう政治との関係を考えてみたいという方がいるということも、はっきり分かったし、たくさん集まって来られましたよ、そこにも。やっぱり政治について考えたい哲学的対話の活動家達がいるのだなと思いました。で、その流れの中での今日です。

一応僕の考えていることを簡単にお話ししますが、その後の質疑でですね、色々と論点を出していただいて、その中からいくつかをその後の哲学的対話でじっくり掘り下げて考えてみたいと思います。ですから、この後の哲学的対話で考える問いも皆さんとの質疑の中で出てくれば良いなと思っていますので、どうぞいろんな論点から自由にお話しください。 

まず最初にですけど、哲学対話という語句に僕はとても違和感が実はありまして…いつの間にか「哲学対話」という4文字熟語がですね、流通しているのですけど、実は中身がよくわからない言葉ですよね。でも何かあると哲学対話って権威を持った言葉として使われることがあって、哲学の専門家の中ででもですね、例えば学校で倫理という科目を教えるときに従来の思想史重視の教え方をするか?哲学対話重視の教え方をするか?っていうような、そんな文脈で使われたりすることがあります。でも、その哲学対話って何?と聞きたくなります。中身がよく分からないのに流通しているものの1つですね。何かこう、熟語の魔力というか、特に四文字熟語になると、何かこう不思議な力を持つんですよね。まあ二文字熟語でもそうですけれどもね。

何かよく意味がわからないのに流通している言葉は他にもたくさんあって、例えば今日のキーワードになっている「市民社会」というのも実はまだよく分からない言葉です。あるいは「政治」もそうですね。「政治」の方がもっとポピュラーというか、「市民社会」よりは落ち着きのある言葉というか、そういう感じもしますけれども…。実はそういったみんなが使っているんだけど、分かった事にしているんだけど、実はよくわかっていない言葉を反省的に吟味してみるということにも哲学的対話の大切な意味があると思っています。

プラトンもアリストテレスも「哲学は驚きから始まる」と言った訳ですけれども、この驚きの意味ですよね、いろんな意味に取ることができると思います。自然とかを見ていると、凄いわけですよね。自然の驚異というか、素晴らしさというか、わ〜凄いと思うわけです。わ~素晴らしいと、そういう驚きから始まることももちろんあると思います。あるいは人間というのがとてつもなく残酷なすることをすることがあって、なんでこんな残酷なことをするのか?こんなことがなぜ起こり得るのか?という驚きから哲学が始まることがあるかもしれませんね。

でも一番自然な哲学の始まり方というのは、みんなわかった事にしていて、みんな使っている言葉なのに、その真の意味を誰も知らないという驚きですよね。それが哲学というものが始まる一番自然な始まり方ではないかと思っています。いずれにしても僕は哲学対話という言葉を極力使わないようにしておりまして、「哲学的な対話の実践」とかですね…ちょっと違った言い方をして「あれ?」って思ってもらうようにしています。

哲学と政治、或いは哲学と市民社会ということで、最近僕が思い出すのは、オーストリアで開かれた子どもの哲学をめぐる学会ですね。「子どもの哲学と啓蒙主義」という…そういうテーマで学会が開かれました。オーストリアにある子どもの哲学の研究所が主催している国際学会で、子どもの哲学国際会議という名称で、毎年10月に開かれているものです。去年のテーマが「子どもの哲学と啓蒙主義」だったんですね。オーストリアなのでドイツ語なんですけれども、2017年度のテーマ、「今日の啓蒙主義あるいは今日の啓蒙思想」という意味です。そしてその後にラテン語が出てきますけれども、これはイマヌエル・カントの有名な論文「啓蒙とは何か?」の書き出しの部分です。日本語に訳すと「思い切って賢くあれ。自分自身の知性を使う勇気を持て。」という語句なんですね。これはカントが啓蒙主義のスローガンとして掲げたものです。子どもの哲学、子どもとする哲学的対話と啓蒙主義、多分に政治的な意味を含んだ語彙が結び付けられている訳です。

その謳い文句の中には「デモクラティー ~」という言葉が見られます。デモクラティーというのはデモクラシーという意味ですね。「民主主義と批判的思考」とかですね。「自由と自己決定」とかですね、その下線が引いてある部分は「人間の権利」、人権と訳されることが多いですけれどもね。そういったことが、政治的なテーマに入っています。

これはさっきどなたかが言われていたように、ヨーロッパの市民社会では、市民社会というものが長いことあって、その中でこういった概念が定着している訳ですね。それを日本に移してきて、たかだか百数十年の間にそんなに政治的な概念というものが根付くのだろうか?根付いているのだろうか?という、そういった問題にもひょっとすると繋がることかもしれません。だからそういったところも考えなければいけないのですが、しかし、ちょっとそこはまた後で話合う題材としてとっておいてですね、話しを続けます。

ユネスコがですね、パリ宣言というのを1995年に出していて、その中で「市民教育としての哲学教育」というのを高らかに謳っています。簡単にいうと「誰もが哲学を学ぶ権利を持っている」、そういう宣言なんですね。どの年代の人であれ哲学を学ぶ権利を持っている。哲学がない、哲学の勉強ができないところでは、それを勉強できる機会が与えられなければならない、と言っているのですね。そして、そういう哲学教育というのは、先ほど出てきた、自分自身で考えることとか、自分の知性を使うこととか、批判的に考えることとか、そういった事と結びつくわけだけれども、民主的な社会を作るために非常に重要である、そういう宣言も為されています。

それから「政治と哲学」ということ、「哲学的対話と政治」ということで、もう一つ僕が思い起こすのは、20世紀の前半に登場した「国際社会主義闘争連盟」という政治団体ですね。ドイツ人が「国際」、「国際的」と謳ってやっている訳ですけれども、これはドイツの団体です。例えばベルリンにある「ドイツ抵抗記念館」という、ナチズムに抵抗して粛清された、命を落とした人達を顕彰する記念館があるんですけれども(国防省の中にあるんですけれども)、非常に印象的な記念館なんです。そこを去年見学に行って、わ〜すごいなと思って見て歩いていたら、僕が何故か知っている人たちの名前が出てきたんですね。なんで知っているのだろう?と思ってみったら20世紀の前半にドイツで哲学的な対話をやっていた人達、哲学的対話の歴史を辿っていくと出てくる人達が並んでいたんですね。

ミナ・シュペヒトとか、ヴィリ・アイスラー、マリア・サランという人達ですね。マリア・サランの娘さんは、リーニー・サランという人ですけれども、今でもイギリスで哲学的な対話の活動をやってらっしゃいますが、そういう人達が出てきた訳です。こういうところでも繋がっているんだと思いました。哲学的な対話が、こういうナチズムに抵抗してきた人の系譜の中にあったということが分かって、とても印象的でしたね。

この「国際社会主義闘争連盟」というのを主催していたのはネルゾンという哲学者でした。レオナルト・ネルゾンという人なのですが、ソクラテス的方法という方法で、大学で哲学の授業をしていたので有名です。ソクラテス的方法というのは、今でこそ法科大学院とかでよく使われている言葉ですけれども、「問答だけで教える」というやり方の事ですね。講義はしない、全て問答だけで哲学を教えるという、そういうやり方を実践していた人です。

そのネルゾンのソクラテス的方法というのが、市民社会の哲学的対話に応用されたのが、ネオ・ソクラティク・ダイアローグ(NSD)という哲学の対話法です。ネルゾンの弟子達が「ソクラテス哲学協会」とか「哲学政治アカデミー」等、そういうものを作って哲学的対話と政治活動をミックスしたような活動を戦後もずっと続けてきたという経緯があります。

このネオ・ソクラティク・ダイアローグは我々のグループ「カフェフィロ」でも時々取り上げることがあります。というかカフェフィロのメンバーの中にこのネオ・ソクラティク・ダイアローグに入れ込んでやってる人達が何人かいます。とてもユニークな方法ですが、どうやってやるのかという事はここではお話をしませんが、一つの哲学的な対話法であるという事です。しかし、それが政治と密接に結びついた活動であったということを確認しておきたいと思います。

ネオ・ソクラティク・ダイアローグというのは凄いですよ。ドイツではですね、今でもこのネルゾンの弟子たちがやっているのですけれど、1週間泊まりがけで哲学的対話をするんですね。多くの場合、1週間ひたすら1つの問いを考えるという凄まじいものです。そんな悠長なこと我々はやってられないと思いますよね。ドイツで長い休暇を取ることができる人達だからできる事だなという感じもしますが。最近カフェフィロの仲間が、このネオ・ソクラティク・ダイアローグを体験しに行かれました。丸々1週間合宿をしに行ったという話をこの間聞きましたけれども…。

僕自身はですね、哲学的対話と政治的討論を区別して考えるとよいと思っているんですね。哲学的対話と政治的討論、対話=ダイアローグ、討論=ディベートですよね。

政治的討論、政治的ディベートというのは、これは特定の目的を実現するための言語活動です。つまり自分の主義主張、自分のイデオロギーを相手に説得して、それを通すための言語活動ですね。いわば勝ち負けがあるような言語活動だといってよいと思います。中学や高校で行われているディベート教育も、そういうものですよね。勝ち負けを決めるというか、より説得力をある言説をしたほうが(説得力とは何かということを考えなければいけない問題ですけれども)、相手を言い負かした方が勝ちであって、そうやって最終的には政治的な決定をするための言語活動だということができると思います。

こういうことをいうと、ディベート教育をしている人達に怒られるかもしれませんね。「そんな単純なものではない」と言われるかもしれませんけれども。確かにそんな単純なものでもないだろうとは思いますが、哲学的対話との対比を明確にするために、単純化してみました。

それに対して、哲学的対話というのはどういうものかというと、真理を探求するための言語活動ですね。決着をつけなければならないことが必ずしもない訳です。プロセスが大事であって、手段が大事であって、そういうタイプの言語活動だと思います。もちろん真理を求める言語活動なので、正しい答えが見つかることが目的といえば目的なんですけれども。しかし、そのためのプロセスを大事にするというタイプの言語活動ですね。必須なのは、参加者の自由と平等ということです。参加者が自由に、そして平等に対話に参加できる、そういう環境でないとうまくいかない言語活動だと考えられます。

これは現代の哲学者でいうと、ハーバーマスという人が(ドイツの哲学者ですが)、道具的理性とコミュニケーション的理性という言い方で区別しているものに相当すると思います。

つまり、道具的理性というのは、何らかの目的を達成するための手段を考えるような頭の使い方の事ですね。これは悪いことではない訳です。我々は皆、自分の目的を達成するための手段を考えて生きています。普通、理性を持った人、頭を使うことができる人は、そういう頭の使い方をします。

しかし、それだけではない訳ですね。それだけではなくて、目的を達成するための手段としてというよりも、他の人々とコミュニケーションを取りながら、対話をしながら、お互いに理解し合っていくという、そういうお互いに理解するというタイプの頭の使い方もある。それを「コミュニケーション的理性」とハーバーマスは呼んだ訳です。

真理の探求というのは、実はそういう環境の中で起こるというのが、ハーバーマスの最終的な考えですね。哲学的対話というのは、このコミュニケーション的理性を働かせていることになると思います。

そうやって行われるコミュニケーション的理性の使い方の一つである哲学的対話、或いは哲学的な思考というのはどんな特徴を持っているのだろうかということを、抜き書きをしておきました。

哲学的思考、これは人間の最も基本的な知的な活動だと思います。つまり何らかの問いがあって、その問いをめぐって、対話をしながら考える。これがベースですね。自然科学とかそういったものですら、この基本的な知的活動をベースにしています。哲学は万学の女王だというのは、ちょっと褒めすぎかもしれませんけれども、哲学は万学の源泉ではある訳ですね。

それから、もう一つの特徴としては全人称的な思考であるといえると思います。人称というのは、人称代名詞の人称ですね。英語を習ったり、ドイツ語を習ったりする時に、フランス語でもなんでもそうなんですが、人称代名詞というのが出てきます。私(日本語の場合、俺でも、ワシでも、僕でも、何でもいいのですが)、そういう一人称、英語の「I」に相当すること。それから、あなた、お前、貴様、「You」に相当する二人称ですね。それから、彼や彼女、あの人に相当する三人称。全人称というのはどういうことかというと、私・あなた・彼や彼女、全てということですね。

自然科学だと、一人称、二人称は大事じゃないですね。一人称、二人称は排除した方がよいです。三人称的に考える、客観的に考えるのが自然科学ですけれど、哲学は一人称も二人称も入ります。「私はこう思う」という次元。それから「あなたはそう思う」という次元。そして「あなたはそう思うのを、私が受け止める」という次元ですね。もちろん三人称も入ります。客観的に考えてみるという事も入る。でも、どれも欠けてはいけないというか、哲学的な思考の場合には、この3つが揃ってなければいけない訳ですね。そういう意味で全人称的な思考。一人称も二人称も三人称も全部入るという、そういう特徴を持っています。

それから「人間が生きる上で大切だが、普段はあまり考えないことを考える」という特徴を持っています。どんな些細な問いでも、考えていくと結構大事なことに突き当たるんですね。

たとえば「義理チョコは必要か?」。僕のカフェフィロの仲間が哲学カフェで考えていました。「義理チョコは必要か?」、面白い問いだなと思う人もいれば、なんてくだらないことを考えているんだと思う人もいらっしゃるでしょうけど、これは結構深い哲学的な問いに突き当たります。つまり我々は知らないうちに何らかの規範に縛られていることがあって、その規範はどこから来るのだろうか?というそういう問いですね。普段あまり考えないけれども、重要な問いについて考えることになる。

それから、当たり前とされていることを問い直す。これは普段あまり考えないことを考えるということに通じますけれども、当たり前だから考えないんですよね。義理チョコを渡すのが当たり前だから考えない訳です。でも本当にそうか?という事ですね。

それから「誰も最終的な答えを知らない事」、人間にとって本当に大事なことというのは、誰も最終的な答えを知らないですね。それを対話を通じて一緒に考えるという側面があります。誰かに教えてもらうことってできないですよね。対話を通じて一緒に考えるしかない。そういう問いです。だから皆平等になるのですよね。誰かが答えを知っている訳ではないのだから。

もちろん誰か「答えを知っている」という人達がいるわけです。宗教とかは、普通そういう答えを知っている人達の世界ですよね。ですが、哲学は宗教ではありません。

それから新しい知識を増やすのではなくて、既に持っている知識を深め、豊かにするという側面があります。さっきも言ったように、誰かが答えを知っている訳ではないので、知識として与えられるものではありません。哲学的対話で考えることによって、自分で新しい知識を生み出すという事はあって、増えはするんですけれど、知識を増やすことが目的ではない。むしろ既に持っている知識を深め、豊かにすることが目的ということになります。

当然知っていると思っていたこと…前回ちょうど1週間前ですかね、僕のカフェフィロの神保町のカフェで話題になったのは、自律的に生きることとか、自尊心とは何か?という問いですね。みんな自尊心って何か?って、分かっているし、言葉も知っているし、大体こんなことだろうというのは分かっている。でも本当の意味は誰も知らなくて、その自尊心って本当は何か?我々にとってどんな意味があるのか?ということを掘り下げていくタイプの思考ですね。結局最終的には、自尊心を掘り下げただけで、新しい知識が付け加わっている訳ではないわけです。

そして、そういうことを通じて自己と自己を取り巻く世界に意味を見出していく。既に持っている知識を深め豊かにしていく事はどういうことかというと、意味を見出していくということである。それをちょっとかっこいい言葉でいうと、新しい自己と新しい世界に出会い直していくということになります。「新しい自己と新しい世界に出会い直していく営みとしての哲学対話」ということが言えると思いますね。

こういう哲学的対話が政治的討論と区別されるものの意味ですね。いうまでもなく、政治的な決定は最終的にはどこかでしなければならない訳です。どこかで多数決何なりをして決めなければいけない。政治の世界では実際に決めていく訳です。

しかし、その時にも、結局多数決で決めるという「多数決が民主主義だ」という考え方ではないタイプの民主主義が必要なのではないだろうか?その単なる多数決ではない民主主義の基本として、よく語られるのが「熟議」という言葉です。これはデリバレーションという英語の翻訳です。「よく考えること」、「熟考」、ひとりでデリバレーションすることもできます。一人の人がじっくり丁寧に考えることを熟考と言いますが、集団的に熟考することもデリバレーションです。それを熟議と訳しているわけです。熟議の基礎としての哲学的対話ということが考えられると思います。

政治的な決定をしなければならない時も、哲学的な問いが沢山出てくるんですよ。それを丁寧に考える事こそが熟議です。例えば原発をどうしようか?というのは重大な政治的問題ですよね。僕は個人的には反対ですけれど、しかし賛成の方もいて、全面的に賛成の方だけではなく、限定的に賛成の方もいて、それぞれに理由を持っているわけですよね。その理由を突き合わせて対話をすると、それは色々な哲学的な問題が出てきます。

その中で一番根底にある哲学的な問題は何かというと、「幸福とは何か?」という問いですよね。結局原発が人間の幸福に役に立つかどうか?幸福に役に立つと思っている人と、役に立たないと思っている人、幸福の中身が違ったりするわけです。では、本当に幸福というのはどういうこと?と一緒に考えてみる必要があります。例えばそういうことです。

そうやって熟議の中で哲学的な対話が出てくる。これは本当に政治的な決定をするためには、必須だと思います。ところが哲学的対話というのは一朝一夕にできるようにはならないです。素人の人が集まって、哲学カフェを楽しそうにやっていますけれども、実は本当に良い対話になることってそんなになくて、今日は本当に良い対話だったと思える対話は何回も哲学カフェに参加して、いろんなテーマで話してみて、色々な態度を身につけていかないとできない事なんです。

つまり、哲学的対話の態度や文化を育てる必要があると思います。先程申し上げたように、最終的には政治的な決着をつけなきゃいけないわけですが、付けなくてもいい問題も沢山あります。付けなくてもいい問題に決着を付けろと圧力をかけるのはとってもよくないですね。別に決めなくてもみんなそれでうまくやっていければそれはそれで良い訳ですけれど。

一方で、決めなきゃいけないことも沢山有るわけで、そうした時により良い政治的結着をつけるための熟議であり、その熟議のための哲学的対話であると。そういう順番になると思います。そもそも何を政治的に決着すべきか、しなくてもいいかというのも哲学的対話の一つの成果かもしれないですね。そういうわけで、民主主義を単なる多数決に終わらせないための熟議、そして哲学的対話と言えると思います。

去年の10月にお話ししたときにはちょうど民主主義の危機が叫ばれていた時でありまして、つまり非常に強い政権が、数の力でいろんなことを押し通そうとしていると感じた人達が沢山いて、憲法改正の動きとかもあったりして、あるいはあからさまに立憲主義を覆すような動きもあったりして、民主主義の危機と言われていた、ちょうどそういう時期だったので、こういう項目が入っている訳ですけれども。

でも今もそういうのは変わってないですね。むしろ官僚が腐敗していることが分かったりして、もっと民主主義は危機的状況かもしれないですけど、それと哲学的対話はどう関係するか。民主主義の危機というのはさっきも申し上げたように、哲学的対話は自由で平等な人の間でしか成り立ちませんから、民主主義が危険になるという事は、哲学的対話も危機になるということでもあります。ところが、民主主義の危機に対して哲学的対話はほとんど無力です。哲学的対話がこの危機に対して、何かができるということはほとんどありません。

何故かというと、さっき言ったように、哲学的対話にはある一定の態度や文化が必要だからです。本当に良い哲学的対話のためにはですね。それを育てるには時間がかかるので「民主主義の危機だから、哲学的対話の出番だ」と言っても、それは遅いと思います。危機の遥か手前で介入する必要がある。これはあらゆる人道的介入がそうであるように。著しい人権侵害が起こっている時にですね、その著しい人権侵害が起こっている地域に武力で介入していいのかという問題はありますが、武力で介入するずっと手前に市民的な介入をしなくてはならない訳です。もうどうしようもなくなったら、武力で介入するしかなくなるわけです。

それと同じで、この危機には哲学的対話は殆ど無力です。政治的に介入するしかないというか、政治的に行動するしかないですね、この民主主義の危機を脱するためには。国会前にデモにでも行くしかないですね。(僕も時々行きますけれども…)。でも、その遥か手前でできることがあって、それが哲学対話だと言ってもいいと思います。デモに行くという事は特定の政治的な主張を掲げて圧力をかけに行くという事ですから、これは哲学的対話とは正反対の事というか(暴力は使わないので正反対ではないですが)…。まだ言論を使っているという事は哲学的対話に近いかもしれませんが、政治的なディベートの世界になってしまいます。そういうわけで、さっきの哲学的対話と政治的ディベートの区別からいうと哲学的対話と程遠い言語活動ということになると思います。

だから学校教育における哲学的対話の実践をする訳です。学校教育において哲学的対話の実践をするのは、熟議ができる人を育てるということも一つの目的だと思います。それだけが目的ではないですが、僕にとっては、熟議ができる人を育てるということは一つの目的です。それから市民社会における哲学的対話の実践もそうです。哲学カフェだって、そういった文化を作るひとつの営みだと思うんです。こういう哲学的対話をできる人が増えるというのは、熟議ができる人が増えるということだと思っています。そうやって対話の文化が育ったら良いなということですね。

ところが哲学と政治の関係については非常に難しい原理的な問題があります。原理的な問題というのは根本的な問題というか、根っこのところにある問題で、なかなか解決できない問題のことですけれど。

例えばカントやカントの流れをくむアーレントはですね。哲学というのは実践者ではなくて、観察者の立場で行う事なんだという主張をしています。つまり実践者というのは世の中を変えようとして、色々な活動をしている人のことです。それに対して観察者というのは、そういう世の中の動きを一歩引いて眺めて、いろいろ考えている人達のことです。哲学的に考えるということは、一歩引いて観察者として考えることなんだという考え方もあるようです。カントもアーレントもそういう風に考えていました。

観察者として一歩引いて考えれば、政治的に中立な立場で考えることも可能かもしれませんけれども、しかし我々はそうではないですね。多くの場合、何らかの政治的立場を自分自身で持っており、何らかの意見を持っている。政治的に中立な立場ではない。その人が、いくら一歩引いて観察者の立場で考えようと思っても、本当に中立的な哲学的対話になるのか?という問題もあります。

それからもう一つの問題として、これは先週海外からお客さんとしてお招きした、哲学的対話を研究もし、実践もしている、アルゼンチン人の哲学対話実践者が言っていたのですが、哲学的対話も新自由主義に利用される恐れがあるというんですね。「クリティカル・シンキング」…批判的思考ですね。一見政治的には中立的に見える思考法ですね、あるいは教育目的ですね。それが実は新自由主義に貢献しているという、それと同じことだと言っていました。

これには僕ははっとしました。真理を求める営みであるはずの哲学が実は特定の政治を支持するための言説になり得るということです。そういう場合の真理というものは、そもそも見出されるものではなくて、誰かが作るものなんですね。そういう事にもなり得る。最近のフェイク・ニュースとかですね。フェイク・ニュースがあまりにもはびこって、「ポスト・トゥルース」と言葉がささやかれたりしていますね。つまり、もう真理のない世界ということです。何が真理だかわからない。あるいは真理かどうかなんて、どうでもいい世界ということになると、それはちょっと怖いですが、そういった問題も最近では考えられるのだという事に気がつかされました。

最後に、イマヌエル・カントの世界市民の哲学という考えをお話しして話を締めくくりたいと思います。

カントはあまり政治に対しては語らなかったんです。法については語ったし、国家については語ったし、その法や国家が最終的には世界市民社会になるという。そういうことについては語ったんですけれども、どうしたらいい国家になり、どうしたら世界市民社会が成立し、どうしたら永遠平和が来るか?ということ、そういった目的を実現するための手段としての政治については、あまり語っていないです。でも、そのカントの世界市民の哲学という考え方に、今日お話ししたことを更に深めるヒントがあると僕は考えていて、それを紹介して終わりたいと思います。

カントにとって哲学とは何かという話ですね。一言でいうと、カントは哲学とは「世界概念の哲学」だと言っています。「世界概念の哲学」というのは、これは「学校概念の哲学」と対比して使われている言葉です。学校概念の哲学は分かりやすいですね。これは講壇哲学のことです。大学で教えられている哲学のことです。カントは「それは本当の哲学ではない」と言って、(自分も大学の先生なのに)足元を掘り崩すようなことを言っているわけです。

では、何が本当の哲学か?それは世界概念の哲学だと。世界概念の哲学のことをカントは言い換えて「世界市民の哲学」と言っています。世界市民の哲学は何かというと、人間にとって本当に大切な知、人間にとって本当に大切な知恵を、学術の専門家に頼らずに、一人の世界市民として探求する営みの事だと言っています。

学術の専門家(大学の先生等を考えてみたらいいですね)、哲学の専門家、僕のような人も学術の専門家です。その学術の専門家のことを「理性技術者」とカントは呼んでいます。学術の専門家というのは、どんな分野の専門家であれ、技術者の一人なんだ。技術者は特定の分野では特定の優れた技量を持っていて、大したことができるかもしれないけれども、人間にとって本当に大切な知は彼らに聞いてもわからないと言っている。一人一人が世界市民の立場で探求しなければならないと言っている訳です。この一人の世界市民としての探求の営みというのは哲学カフェとかで行われていることですね。

カントはそうやって世界市民の哲学から、何を得られるのか?それは人間理性の究極目的に到達することができると説いています。「人間理性の究極目的」、それをいろんな言い方で表現しています。「道徳的世界」と言ってみたり、「永遠平和」と言ってみたり、「世界市民社会」と言ってみたりするんですね。

「道徳的世界」というのは、すべての人が道徳的に正しい行いをし、道徳的に不正な行いをしないような世界のことです。これはおよそ有り得ないことかもしれない。しかし、それに近づいていくことはできるだろう。「永遠平和」というのは、もちろん、戦争のない世界、敵対行為のない世界のことです。これもおよそ有り得ないことかもしれない。しかし、それに近づいていくことはできるだろう。「世界市民社会」これは国境のない世界の事ですよね。或いは国境があっても良いのだけど、国境がそれほど決定的な意味を持たない世界です。それもおよそ有り得ないことかもしれない。しかし、それに近づいていくことはできるだろう。

それに近づいていく手段は、どうもカントの中では政治ではなくて、哲学なんですね。哲学的に考えることによって、我々はそれに近づいていくことはできる。

哲学の四つの問いという有名な問いをカントは挙げているんですね。一番目、二番目、三番目の問い。「私は何を知ることができるか?」これは形而上学の問いである。「私は何を為すべきか?」これは道徳の問いである。「私は何を希望することが許されるか?」これは宗教の問いである。宗教というのは、そういう希望を教えるものですよね。死後の命を希望することが許されるかどうか?多くの宗教は死後の命に対する希望を教えますよね。

でもこの三つの問いは全て最後の4番目の「人間とは何か?」という問いに収斂していくとカントは言っている。だから、哲学の最終目的というのは、結局は「人間とは何か?」という問いに答えることだという事になりますね。

その「人間とは何か?」という問いに答える事が、なぜ永遠平和や世界市民社会というものに繋がっていくのか?というのは謎です。みなさん、考えてみてください。そんなところで今日の話を締めくくりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

(記録:高橋あずさ 本間正己) 寺田俊郎さんに確認をお願いしました。

 

寺田俊郎さん(カフェフィロ会員/上智大学教授)のお話【第11回東京メタ哲学カフェ(2017年6月4日)】

テーマ  『大人の哲学カフェのこれまでとこれから(市民、企業、医療……)』

 

 哲学カフェの「さろん」さん、昔からちょっと交流があります。最近はしばらくご無沙汰していますが、さろんさん、いろんなところと提携していてすごいなーと思います。さろんさんなんかに比べると、(僕の所属しているカフェフィロ全体はいろんなことやっていますが、)僕単体としては、なんか十年一日の如く同じことをやっています。で、さっきのさろんさん、「哲学カフェ@せんだい」でしたかね? 僕らの仲間でもあるんですけど、早速そういうところと提携し手を結んで、一緒に何かをやっていこうとか、いろんなことやってらしてすごいなーと思います。

 で、ここにこうして呼ばれてお話をするということ自体が、なんか隔世の感があります。「メタ哲学カフェ」ですか!?って感じ。メタ哲学カフェですから、哲学カフェについて哲学カフェをするという、そういう意味ですよね。メタにはもうひとつ意味があって、「あとで」という意味がありますね。ですから、哲学カフェを追いかけて哲学カフェをするという意味にもなるかもしれませんね。こういう会が成り立っていること自体、ほんとね、いやー、時代が変わったなという感じがします。

 というのも、本当にこんなにたくさん哲学カフェに関心のある方が出てきて、しかもそれぞれ哲学カフェを主宰しておられる方もたくさんいて、それに参加する人たちもいて、僕が哲学カフェを始めた頃には考えられない。長い間、ほんとに細々と哲学カフェをやってきたという感じですね。

 最初に哲学カフェを開いたのは2000年のことでした。大阪でですね。今からお話することは、ひょっとしたらもうお読みいただいているかもしれません。おかげさまで、第2刷が出たんです。この『哲学カフェのつくりかた』という本に僕自身が書いた主旨は今でもそんなに変わることはありません。

 大阪で開いて、恐る恐るというか、試しに開いた哲学カフェだったんですけど、たいへんな盛況で、これに味を占めていろんなところで哲学カフェをやるようになったという感じですね。

 で、こっちに移って来たのが2001年。それから間もなく2002年頃から哲学カフェを始めましたが、最初は大学のキャンパスでやっていました。街のカフェに出て、いきなりやる勇気がなくて、それで、主に学生を集めて哲学カフェをやっていて、それを他の学外の方にも開放してしたのが東京での最初です。

 で、2003年頃ですかね、初めて街のカフェで開いて、それからしばらく街のカフェと大学のキャンパスで交互に、ほぼ月にいっぺん開いていました。隔月だったこともあったかな?月にいっぺんくらいのペースで開いて、参加者はそうですね、カフェフィロのホームページや学内の貼り紙や、公民館に掲示を出してもらったりとか、そういうことをして毎月10人前後だったかな?少ないときは2~3人でやったこともあります。

 そんな時期が長いこと続きました。で、一時、海外に長期出張に行っていて、2年間中断していた時期もありましたが、2008年頃から再び街の哲学カフェを始めて、間もなく神田の神保町で、最初は、「クライン・ブルー」ではない喫茶店でしばらくやって、その後、今の「クライン・ブルー」に移りました。それからほぼ月にいっぺん開いています。そこもですね、ほんとに5~6人でやっていたこともあるし、なんかこう……喫茶店の隅に陣取って、怪しいことをしている人たちがいる(笑)……なんかそんな感じのことも多かったですね。

 そうこうしているうちに人が増えたのは、やっぱりマスコミの報道って大きくて、いくつかの新聞で取り上げられてからバーっと増えましたね。30人くらいでしばらく店を借りきってやっていたんですけど、ちょっと多過ぎるので、15人という定員を定めて申込制にしました。

 いつ頃だったのかな?2013年~2014年くらいだったと思いますけど、今は15人定員ということにしています。これは本当はよくないんですね。哲学カフェですから、出入り自由でなければならない。いつ入って来てもいいし、いつ出て行ってもいい。できたらふらっと来てほしい。あるいは、面白くなかったといって帰ってほしい。哲学カフェの意味はそういうところにもあると思う。第一に、出入りが自由である。気楽に参加できるのがカフェ。でもまあ、しょうがないですよね。東京って、場所を確保するのがたいへんで、たいていの喫茶店は土日なんて混み合っていますし…。ふらっと来て15人占拠なんていうのは無理ですね。ですから、申込制にするのはやむを得ないのでしょうね。ほんとは良くないことなんですけど、多くの人に関心を持ってもらっているということはありがたいことなんです。ま、そういうこともあって、哲学カフェ全盛時代。これはいいこと、嬉しいことですけど、ちょっと戸惑いも感じたりします。

 今日はいろんな方にお目にかかって、いろいろな活動のお話を伺えて、とても興味深かったです。で、僕にとってはですね(皆さんそれぞれの動機があって、哲学カフェや対話をやってらっしゃると思うんですけど)、僕は元々哲学科の学生であり、哲学の研究者、僕の出発点は哲学の研究なんですね。大阪大学に臨床哲学という研究室が1998年にできて、ちょっと変わった名前の専攻ができたんですね。僕はその博士後期課程の1期生だったんです。もういい歳でしたけど…。さっき、Mさんが自分自身のことを話してくれたように、仕事を辞めて、大学院の博士後期課程に入り直す。臨床哲学の研究室でしたけど、僕自身はイマヌエル・カントというドイツの哲学者の研究をずっとしていて、その傍ら臨床哲学的な活動をするという、そういう大学院生活を3年送ったんですね。ですから、出発点は哲学研究。今でも哲学研究の一環…、研究というよりも哲学活動の一環といったほうがいいかもしれません。哲学実践 の一環というふうにいっていいと思います。

 実際に哲学実践という言葉は、また最近注目を浴びるようになってきました。英語では「フィロソフィカル・プラクティス」と言われる活動が現にあるんですけど、僕にとってはそういう側面が、つまり「哲学を社会に活かそう!」、だからやはり、哲学の研究をしている人、職業として哲学に携わっている人が外に出ていくイメージで、ずっとやってきました。

 鷲田清一さんのスローガンも「大学から外へ出て行こう!」、哲学を大学から外に出す。そして社会の様々な現場で哲学を生かす、あるいは、鷲田さんの大好きな言葉でいえば、「社会の苦しみの現場で哲学を生かす」、それが臨床哲学の意味です。

 臨床哲学の活動として、僕はずっと哲学カフェを、あるいは哲学カフェ以外の哲学実践をやってきたということになります。で、十年一日の如くでしたね。僕の哲学カフェは十数年前に始めた時のやり方と全く同じやり方で、なんの変化もなくやり続けています。

 だから、この『哲学カフェのつくりかた』に書いた記事のタイトルが、おちゃらけているので覚えていらっしゃる方もおられるかもしれません。「ガラパゴス化する東京哲学カフェ?――哲学カフェの進化とは何か?」進化から取り残された哲学カフェ。

 で、実はこの僕が始めた哲学カフェのルーツは、哲学カフェそのものではなくて……というか、哲学カフェはフランスのパリで元々始まったのですが、僕はフランスの哲学カフェ、パリの哲学カフェに行ったことがないし、僕の同僚たちはお金持ちで、パリの哲学カフェを訪ねて行ったりしているんですけど、僕はそんな経験ないし、それから、アメリカ合衆国でも、「ソクラテス・カフェ」というのがあって、これも本が出ていますが、ソクラテス・カフェも行ったことがないし、何のイメージもないまま、僕は始めたんですね。

 唯一のイメージは何だったかというと、「ソクラティク・ダイアローグ」、ドイツを中心にその頃展開していた対話活動です。ソクラティク・ダイアローグ、すなわちソクラテスの対話、普通はこれ、プラトンが書いた対話篇のことを指す言葉です。ソクラティク・ダイアローグ、そういう活動があったんですね。今でもやっています。そのドイツを中心とするヨーロッパのソクラティク・ダイアローグのイメージでやっていた。そして今でも十年一日の如く…ですから、今でも僕はそのソクラティク・ダイアローグをやっているんですね。参加者の主体性を重んじる。だから、進行役はできるだけ介入しない。

 長いことやっているうちに僕自身のスタイルみたいなものがひょっとしたらできてるのかもしれませんね。自分ではよくわかりませんけど。以前よりは進行役としてやりやすくなった。経験を積んでくるにつれて自分自身でも楽しめるように。最初は必死でやっていた。なんかこう皆さんの対話について行く、そういう進行役ができると嬉しい。皆さんがこういろいろ言いあう、その対話が一つの流れになって、その流れをできるだけ面白いものにする。最低限のことをやっていると言えばやっていると言えるかもしれません。

 その内にですね、いろんな所に招かれて進行役をするようになりました。さろんさんに呼んでいただいて…。それから例えば公民館のような所に呼ばれて行って、哲学対話・哲学カフェ的なワークショップみたいな。

 それから印象的だったのは逗子の古民家、築100年の古い日本家屋ですね。そこに逗子の市民の人たちが集まって哲学カフェをする。あるいは「代官山ステキなまちづくり協議会」という代官山の街作りを考える市民の会があって、そこでよい街あるいはよい街作りというようなものを考える。

 一番最近はですね、金沢の近くに西田幾多郎という日本の哲学者の生まれ故郷があって、そこに日本で唯一哲学の博物館があり、そこに招かれて哲学カフェをやった。みんなで大きな炬燵に入ってですね哲学カフェ…。テーマは「食」について、食べること、とてもおもしろい…。(西田幾多郎記念哲学館 石川県かほく市内日角井1)

 いろんな所で哲学対話の進行役…残念なことにいつも進行役をしているので、参加者としてあまり参加したことがないんです。(笑)参加者としてもっと行ってみたいと思ってるんですけど、なかなか忙しくて時間がなくて…それは残念なことです。

やはり哲学の研究者、哲学の専門家として、それを社会に生かすというスタンスが…やっぱり大きいです。ただそういうことをやっているうちに、それだけじゃないというか、哲学の専門家が哲学を社会に生かすという、内から外へという方向だけじゃないことに気づいた。

たとえば、哲学カフェは僕自身がとても楽しみながら…。それから実は僕ももちろん勉強させてもらっている。哲学研究者にとっては哲学カフェはリハビリのようなもの…。つまり哲学の研究をしていると哲学の基本を忘れることがある。本来哲学ってこういうことだったということを忘れることがある。

やっぱり研究者なので本当にすごくいろんなことを勉強しないといけないし、あるいは哲学研究の世界で築かれてきた作法とかそういったものに従わなければならない。そうすると、素朴に哲学的な問題点を考える哲学の基本というか原点、哲学の原点というようなものを忘れることがある。それを思い出させてくれる…。

そういうリハビリ効果、これは別な言葉でいうと哲学研究者が哲学者になる修行のようなものです。難しい区別かもしれませんけど、哲学研究っていうのは過去の哲学者が言ったことを研究して、それを解釈して自分なりの解釈を作り上げていく…。哲学史の研究だったり哲学文献の研究だったりします。その哲学研究者が哲学者になって自分でも哲学的に考える…。そういう修行の場であるとも僕は思っています。実際にとてもいい修行の場である…。

僕の哲学研究仲間の中にはもう自分は哲学者だと思っている人がたくさんいて、ちゃんと哲学的に考えることができると思っていて哲学者を名乗っている人たちもいます。鷲田さんなんかもよく世間で紹介される時には哲学者って紹介されています。鷲田さんは哲学者って呼んでもいいかもしれませんね。かなりオリジナルな思考をしておられると思います。本当に哲学者なのか?と思う人もいます。僕はまだまだ自分は哲学者ですって名乗る勇気はありません。僕は必ず哲学研究者ですと言います…。その哲学研究者が哲学者になる修行を哲学カフェでさせてもらってます。

それからもちろん対話の文化を作りたいという野心のようなものがあります。アンビションのような。哲学と対話の文化を作りたい、日本社会にね。

よく対話のない社会と言われたりしてますね。これはある意味当たってますね。とっても対話に欠けている…。そこに対話文化…問いを問い合う文化…ですね。日本社会は問いを問わない…問いを封じ込める文化ですね。それを解放したい…。

なぜ?どうして?それってどういうこと?って訊くことが自由にできる。そう訊いても咎められたり嫌がられたりしない…。なぜ?どうして?って言うと、「理屈を言うな」とか言われたりして…。「理屈を言うな」…「理屈」は、これは「理論」であり「理性」であり「理由」ですから、「理性を使うな」って言ってるのと同じですね。これはとってもよくないですね。

哲学研究者として哲学を生かしたい。それから楽しい…それから自分も修行…それから対話の文化、これ全部をひっくるめて哲学カフェをやってますけど…いくつかの所で哲学対話の活動をやってます。

例えば小学校に出かけて行って哲学対話の活動をします。横浜市の小学校、この4年間、毎年秋に4週間連続で、哲学対話を6年生と一緒にやってきました。それから高等学校にも出かけて行ってやります。この5年間くらい、哲学対話の授業ですね。いつも大学院生を連れて、そのうちMさんも一緒に…(笑)

学校に行くのは僕自身教育に関心があるから…。さっき聞いたんですが、教育関係者が集まって「さん」付けでしか呼ばない、「先生」って呼ばない会があるらしいですね。ぜひ行ってみたいと思います。教育については興味を持っているんですね。僕自身が仕事を辞めて大学院に行く前は高校の教員でした。6年間常勤の教員をし、その前6年は非常勤、12、3年間高校の教員だったんですよ。

そういうこともあってまあ日本の学校について感じるのも一緒で、さっき言ったように問いを問う文化がない、問いを封じ込める文化がある、これは良くない。

だから同じですね。どこにいても僕のスタンスは同じ、基本的には同じことをする。もちろん子どもですからちょっと子ども用にアレンジはします。教育現場なりにアレンジはしてますが、基本的には同じことをしている。

そして基本的に同じことをしに最近新たに行くようになったのは企業です。企業に出向いて行って…。ほぼ3年くらい試みてるんですが、これはなかなか難しい。正直言って苦戦している。街中の哲学カフェや学校の哲学カフェのように上手くいかない。これは僕が下手なのかもしれないです。

ですが、あるコンサルティング会社と組んでですね、企業研修の一環として実験的にやってみてるんですね。個々の哲学対話はとっても面白いんです。ビジネスマンたち、ビジネスパーソンとして、とてもいい哲学対話をするんです。

ところが売れないんです。(笑)今までは実験ですから半分ボランティアのようにやってたんですけど 、売れないね。研修の一環として買ってくれてもいいと思うんですけど、コンサルティング会社としてやっていますので、そこが儲からないと困るんですね。僕はまあいいんですけど。研究の一環のようなものですから。いいんですけど、苦戦している。

官公庁とかそういった所に行って哲学対話をしてみる。官公庁の研修に買ってもらうということも考えられます。実際、官公庁にしろ、企業にしろ、偉い哲学者を呼んできて話を聞くということはずっとやってきました。偉い哲学者を呼んできて、エグゼクティブ、経営者というような人たちが話を聞くんですね。会社の経営に役立つ知恵などを得るわけです。1泊2日とかで何万円もとると聞いています。僕の哲学研究の仲間たちも招かれていますが、それよりも哲学対話の方がずっと役に立つだろうと思うのですが。(笑)

そんなことをやっていると、10年くらい前だと「ソフィストだ!」と言われ非難されました。古代ギリシアのアテナイでソクラテスが道端で対話していることが哲学になっていくのですが、我々の哲学カフェはそれにならっているところがあります。ソクラテスは無料でやっていました。その時代に、ソフィストと呼ばれる職業教師がいました。上手な話し方とか、上手な議論の仕方などを教えて授業料を取っていました。企業に行って、研修をし、企業からお金を取るのは、ソフィストだろうと言われて、哲学実践をする人々が哲学研究者から詰(なじ)られることがありました。さすがに最近ではそういうことは少なくなったでしょう。

 僕は正真正銘のソクラテスの対話が企業にも役に立つと考えています。僕の街中でやっている哲学対話をそのまま企業に持っていっていいのです。でも売れないですね。ここで妥協してしまうとソフィストになってしまいます。(笑)企業から言われるままにやり方をいろいろ変えていってしまうと、ソフィストになってしまうわけです。(笑)

 これからの話ですが、僕は大それた野望は持っていません。企業で哲学対話を流行らせるというのはちょっと大それた野望かもしれませんが…。哲学カフェに関しては今まで地道にやってきたことを続けていくことが、対話の文化を育てていくことになると思います。もちろんもっと哲学的対話が世間に認知されるといいなぁと思います。このようにだいぶいい流れになってきているのですが、もっといろんな人がいろんな所でやれればと思っています。

 それからこれも大それたことかもしれませんが、これによって哲学研究者が生計を立てられるようになったらいいなぁと思います。哲学を研究する人はなかなか定職にありつけません。大学の教員や研究員になるというのが唯一の道と言ってもいいくらいで、その他には一般の企業に勤めたり、中学や高校の教員になったりという道もありますが、哲学の研究を生かすことができません。哲学の専門を生かして何か仕事ができたらいいなぁと思います。哲学研究者が生計を立てる手段としての哲学対話ができるようになったらいいと思います。

 医療現場では、看護師とか医者とかが、現場で起こるいろいろな問題を考えるためのツールとして、哲学カフェを活用していることも見られます。こういったところでは哲学研究者が哲学カフェの進行役としてやっていることもあります。しかし、まだまだそれで食べていけるまでにはなっていません。ですから、これらを大きくしていきたいです。

 対話文化が最終的には建設的な政治文化に結びついたらいいと思います。今日は別のところで「共謀罪」をきっかけにして対話の会を開いているようです。対話の文化が健全な政治文化を作っていく道のりの一つかもしれません。そういったことに役立っていけたらいいと思います。

 政治に関わる言葉でいえば、「熟議」(deliberation)、熟議の文化を育てていくということになります。「熟議民主主義」という言葉もあります。単に多数決だけの民主主義ではない、あるいは政治的なディベート・論争だけでない民主主義です。

 政治的なディベートは自分の立場を変えない、変えてしまったら負けです。最近、中学や高校で行っているディベート教育もそうですね。言い負かした方が勝ちです。政治ではそれが普通です。しかし、そんなことばかりしていたら、いい政治的な決定をできるわけがありません。

自分の考えは変わることがある、という前提で話をするのが哲学対話です。自分の政治的な立場はともかく、自分から切り離して、事柄そのものをどのように考えるか、哲学対話ではそれをやります。いつもそれをやります。

最終的には政治的な決定をするしかないでしょう。政策を決定する時には多数決もします。しかしながら、熟議をして多数決をしたのと、熟議をしないで決める(ポピュリズム)では、中身が違います。どちらがよい選択になるかは明らかです。

健全な政治文化、健全な市民が育っていくといいと思います。市民(公民)とは自分たちの政治のありかたを自分たちで考えることができる人たちです。

哲学的な問題はユニバーサルな問題です。全人類共通なものです。考え方、感じ方はいろいろありますが、問題は共通です。「生きる意味とは何か」「幸せとは何か」「人は人にどのように接するべきなのか」「善悪とは何か」……。

それらを考える人は「世界市民」です。国境とか、民族とかいったことはカッコに入れて考えることができる人です。世界市民による社会といったものを最終的には考えています。ちょっと大それてはいますが、哲学対話を続けていく先には、そういったこともあるだろうと思っています。

 

(記録:脇村恵子 五島由美子 本間正己  録音:岩崎博明)

2017.3.5(本間)

 

「哲学カフェはひとつの〈言語・ゲーム〉の場である」

 

 哲学カフェをとりあえずシンプルに定義すると、「参加者がテーマ(問い)について対話する場」となる。

 

 その哲学カフェをグループで行うスポーツに例えることがある。野球とかサッカーとかにである。

 これは完全にピッタリとした例えではないにしても、以下のような点で、哲学カフェを考えていく上で面白い観点を提供してくれる。

(1)楽しいということ

 参加者みんなが共同で楽しめる。目標に向かってということもある。野球・サッカーの場合は、相手より点数を多く取って、相手に勝つということが目標になる。

 哲学カフェの場合は、テーマ(問い)に対して、参加者同士が納得のできる答えを求めていくということが当面の目標になる。これはスポーツと同様にうまくできる場合もあれば、そうでない場合もある。(哲学カフェの場合は、この目標は達成できないことが多い。)また、哲学カフェによっては上記とは異なった目標の場合もあれば、そもそも目標が明確でない場合も多いが…。

 いずれにせよ、成果の獲得とともに途中の過程をメンバーで楽しむことができる。

(2)プロとアマ(専門家と素人)

 野球でいえば、プロ野球と草野球というのがある。サッカーでいえば、Jリーグとちょっとした広場で行う遊びのサッカーがある。

 この例えが面白いのは、プロ野球はプロ野球の、草野球は草野球の楽しさがあるのを教えてくれることである。プロ野球は高度な技を見せてくれる、だから見ているだけでも楽しい。草野球の場合、技は低くても、また他の人から見るとつまらないものでも、野球をやっている人たちは楽しんでいる。

 哲学の世界でいえば、哲学の専門家(ここでは一応「哲学者」と表記する)による議論や対話というものは、それは確かに高度で専門的で、外から見ていてもすごいと感じるものがある。一方で、哲学をよく知らない、いわゆる素人だけの哲学カフェというものも、十分に楽しむことができる。

 逆に、素人たちで行われている哲学カフェの中に、妙に突出した哲学者が入るとつまらなくなる場合がある。これは草野球の中にプロ野球選手が入ったら試合が面白くなるかというと、必ずしもそうならないというのと似ている。

(3)ルール

 素人の草野球でも楽しめるのはなぜか。もちろんメンバーに野球についての一定の能力が必要とか、場所や道具が必要とかいうのはいえるが、ここではルールに注目してみよう。

 野球のルールをメンバーが一定程度お互いに了解していることが前提である。それは草野球の場合、アバウトでいいのであり、むしろ状況に応じて柔軟に解釈し、適用した方が面白い。また、野球そのもののルールだけでなく、ある程度礼儀をもって楽しくプレーしようという、いわゆる緩いスポーツマンシップのようなものがあると楽しく試合ができる。このあたりは暗黙の了解である。

 哲学カフェの場合も、一定の聞く能力、話す能力はもちろん必要である。(それほど高度な能力でなくてもよいだろう。) それとともに、前提となるルールというものを了解していることが哲学カフェをグループとして楽しめる。

 哲学カフェでは、「人の話をよく聞く(人の話を途中でさえぎらないようにしよう)」「人への人格攻撃はしない(テーマについての意見・批判はいいが、人の悪口はやめよう)」「難しい専門用語は多用しない(誰か偉い人の考えを借りてきての発言でなく、できるだけ自分の考えを述べよう)」「話す、話さないは本人の自由である」などがグランドルールとして提示されることが多い。(哲学カフェによって多少異なる。)

 また、明確には言われなくても、「お互いの考えが違うことを楽しみましょう」とか、「自分の考えが変わることを楽しみましょう」などということが暗黙の前提になっている。

 これらのルールは、哲学カフェの場の安全性(セーフティ)を保ち、積極的に哲学カフェを楽しむためには必要なことである。

(4)審判役

 草野球では独立して審判役などを決めない場合も多いが、何かしらルールから逸脱した場合にそれを是正する役回りは必要である。これも試合を楽しむためのものである。

 哲学カフェの場合、ファシリテーターを審判というのには違和感があるが、とにかくその場を維持する役割は必要である。緩やかな役回りで十分である。

(哲学カフェは場を維持する必要はない、予定調和は期待しない、破壊もOKという考え方もあることは承知しているが、ここではそこまでは立ち入らない。)

 

 以上を踏まえて、私は哲学カフェのことをウィトゲンシュタインの用語をもじって、一つの〈言語・ゲーム〉の場と捉えたい。

 一定の顕在的・潜在的ルールを前提として、言語を使って楽しむゲームである。それはどのレベルでも、哲学者でも素人でも行われ、楽しむことができる一種のゲームである。

 

 野球・サッカーなどのスポーツだと勝ち負けを決めるので、哲学カフェに似ていないのではないか、またファシリテーターが審判というのには違和感があるといったような感覚を持つ方には、次の例えはいかがだろうか。

 

 登山、ないしはハイキング、ピクニックといった類の例えである。

(1)楽しいということ

 登山というのは、山の頂上を目指して登るという目標を持って、メンバーが協力し、楽しむ行為である。これは哲学カフェのイメージに近い。

(2)プロとアマ(専門家と素人)

 登山の専門家は、多少危険でも高い山を目指す。素人は低い山にするか、ハイキングといったレベルのものを行う。

 これは哲学者が困難で、時には危険な哲学の道を歩む場合があるのに対して、素人はそこまでは行かず、哲学的な風景をゆったりと味わっているというのに似ている。

 そして、何よりも言えることは、登山・ハイキングを専門家でなくても、素人は素人なりに楽しんでいるということである。

(3)ルール

 登山にはスポーツほどの明確なルールはないかもしれないが、少なくともメンバーが安全に登山できるように一定の約束事はある。山のルールというものはあるだろうし、メンバー同士の決まりごともあるだろう。

 これは登山中に一人の脱落者も作らないという姿勢であり、このことを哲学カフェのファシリテーターで強く意識している人もいる。このようなファシリテーターは、哲学カフェの開催に当たって、「みんなで一緒にちょっとした山に登りましょう!」とか、「みんなで一緒にハイキングに出かけましょう!」などと時に発言するが、これは参加者に共通のイメージを持たせてくれる効果がある。

(4)ガイド役

 登山に例えると、哲学カフェのファシリテーターはガイド役ということになるだろう。スポーツの審判役よりは似ているかもしれない。ただし、ファシリテーターはガイド役でもなく、単に参加者を「問い」の山に連れて行くだけの役割しかないという言い方もありうる。

 

 哲学カフェを登山・ハイキングに例えることは時々聞くが、これは上のように参加者にイメージしやすく、いいものである。ただし、私がいう〈言語・ゲーム〉という感覚が薄まるのが、少々難点である。

 

 以上は、あくまでも哲学カフェの例えであって、哲学カフェそのものでないことは言うまでもない。しかし、哲学カフェを人に説明するときに、それなりに使えるものである。

 

 ところで、みなさんは「カバディ」というスポーツをご存じだろうか?インド、南アジアでは盛んに行われているスポーツであり、競技中、攻撃者は「カバディ、カバディ、カバディ……」と連呼し続けなければならないという特徴がある。

 カバディという名前を知っている人でも、体験した人は少ないだろう。そして、その面白さを感じている人は日本ではわずかだろう。

 哲学カフェのことを野球やサッカーに例えてきたが、日本での哲学カフェへの一般の人の認知度はカバディ程度だと私は思う。名前くらいは知っていても、その楽しさ、面白さはほとんど伝わっていない。

 このことを私を含めて、哲学カフェ関係の人たちは再認識しておきたい。私のように哲学カフェの楽しさをもっと多くの人に知ってもらいたいと思っている人間にとっては特にそうである。

2017.1.20(本間)

「哲学カフェとは何か」

 

 哲学カフェとは、哲学対話を行う場のことである。哲学対話とは、「何人かでテーマ(問い)について対話をすること」である。

 いろいろなことを考えたいのだけれど、一人で考えていると行き詰まりやすい。一人で本を読んでいても続かない。講義を受けるのもしんどい。大学に行くのはもっとたいへんである。

 そのような人たちに、哲学カフェはよい場になるだろう。複数・多様な生身の人たちと対話することには、ダイナミックな面白さがある。

 

 ある哲学カフェで、「愛とは何か?」がテーマになっている。

 愛といえば、やはり自分の恋愛体験が強烈である。だから、しばし恋愛の話で盛り上がる。そのうちに、「恋は下心、愛は真心」などと言うオジサンが出てくる。他の人が「愛といっても、いろいろあるよね」と言う。親子愛、友愛、師弟愛……、郷土愛というのもあるよね、などと話がふくらんでくる。

 そのうちに、「愛の反対はなんだろう?」という問いが出る。愛の反対は「憎」じゃない?

いや、愛の反対はむしろ「無関心」のような気がする。といったことから、「関心」とは何か、といった話に深まっていく……。

 

 対話のテーマは、愛とか、人生とか、世界とか、大きなものもある。一方、「(ご飯の)おかずって何だろう?」といった身近なテーマのこともある。普段の日常生活の中では、なかなかじっくりとは考えないことを考えるのは楽しい。

 

 「問う」、そして考える、「答える」、そして考える、そしてまた新たな問いを立てる、考える、答える、考える、問う……。これを繰り返していく。対話としては、聞くことに重点をおく。聞く、話す、聞く……を繰り返す。

 

 このようなことを通して、みんなでテーマ(問い)に対して、納得できる答えを見つけようとしていく。(もちろん、ほとんどが明確な結論は出ないで哲学カフェが終わる。)これらを他者と一緒に行うことを通して、自分自身を振り返ることにもなる。

 

 以上のようなことは、一人で本を読んで考えているだけでは、哲学のプロでない限りは、容易にはできないことである。

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