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過去のイベント

東京メタ哲学カフェの経緯(詳細な記録は下にかなりスクロールしていただくと出てきます。)
2020年11月28日(土)午後2時~5時 オンライン(zoom)読書会:『ゼロからはじめる哲学対話(哲学プラクティス・ハンドブック)』(河野哲也編・ひつじ書房) 進行役 本間正己  5
2020年5月31日(日)午後2時~4時30分 オンライン(zoom)「質の高い」哲学カフェを目指してー「確認型応答」の提言と実習ー 浅野良雄(対話法研究所所長、元・昭和大学兼任講師)9
2020年3月15日(日)午後1時30分~4時30分 新宿区・消費生活センター分館質の高い「対話」とはー哲学カフェにおける「確認型応答」導入のすすめー浅野良雄(対話法研究所所長、元・昭和大学兼任講師)8人
2020年2月16日(日)午後1時30分~5時 新宿区・榎町地域センター 〈哲学プラクティスをダメにしている当事者〉としての自覚を持とう  哲学探偵 11
2020年1月19日(日)午後1時30分~5時 新宿区・榎町地域センター『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』読書会 いちろう(哲学カフェ・哲学対話ガイド)7人
2019年12月1日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館東京/日本 の 哲学カフェ/哲学対話 の 今年は?/来年は?」本間正己(人生カフェ)3人
2019年10月20日(日)午後1時30分~5時 新宿区・榎町地域センター「日本の哲学プラクティスについて思っていること」木村史人(立正大学)12人
㉜2019年9月23日(月・祝)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「哲学相談の危険性について考える」安本史帆(みんなのてつがくCLAFA代表)17人
㉛2019年8月16日(金)午後7時~9時 新宿区・消費生活センター分館「哲学カフェ・哲学対話の運営上の悩み・課題」本間正己(人生カフェ)5
㉚2019年6月16日(日)午後1時30分~5時 新宿区・榎町地域センター「ワークショップ 対話ワールドをマッピングしてみる!岡村正敏(ケアと生涯学習をアートで結ぶ活動)7
㉙2019年4月21日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館 「哲学対話と生涯学習」本間正己(人生カフェ) 11人
2019年3月17日(日)午後1時30分~4時30分 カフェ・ミヤマ高田馬場店 「思考と対話の敵「マジックワード」を考える​」 哲学探偵 11人
2019年2月17日(日)午後1時30分~4時30分 カフェ・ミヤマ高田馬場店 本『考えるとはどういうことか』本間正己(人生カフェ)10人
2018年12月16日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「いま、東京の『街場の哲学カフェ』はどうなっているか?」本間正己(人生カフェ)12人
2018年11月18日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「いま、『街場の哲学カフェ』をどう捉えるか?」芹沢幸雄(さろん)12人
2018年10月21日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「新しい哲学カフェをつくってみる」岡村正敏(ケアと生涯学習をアートで結ぶ活動)10人 
㉓2018年9月16日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「発言しない人に発言を促すのは避けるべきか?」及川一郎(ヨコハマタイワ主催&哲学カフェ・哲学対話ガイド運営)5人
2018年8月19日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「哲学カフェの運営上の課題・悩み」本間正己(人生カフェ)9人 
㉑2018年6月3日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「哲学対話・市民社会・政治」寺田俊郎(カフェフィロ会員・上智大学)20人
2018年5月6日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「ブームとしての哲学カフェをマーケティングする~哲学カフェにとっての、競合とは?脅威とは?」齊藤充(対話学舎えんたらいふ)12人 
⑲2018年4月8日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「どうしたら「よく〈聴く〉、よく〈話す〉」がより充実するだろう?」芹沢幸雄(さろん)14人 
2018年2月4日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「偏見とは何か?」佐野佳子(対話の実験室@公ー差ー転)8人
2018年1月14日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「哲学カフェの「楽しさ」、「楽しさ」の哲学」新妻弘悦(哲学カフェ@神保町)6人

2017年12月3日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「作品とは?」岡村正敏(ケアと生涯学習をアートで結ぶ活動)8人

⑮2017年11月5日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「各哲学カフェから課題・話題を出し合う」本間正己(人生カフェ) 8人

2017年10月1日(日)午後1時30分~5時 新宿区・消費生活センター分館「アーダコーダってナーンダ?~アーダコーダのこれまでとこれから~」小川泰治(アーダコーダ事務局) 11人

2017年9月3日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館「哲学カフェから帰っても哲学してますか?対話してますか?哲学対話してますか?」いちろう(哲学カフェ・哲学対話ガイド管理人+ヨコハマタイワ主催者) 8人

2017年8月6日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 哲学カフェにおける「いいテーマ」とは何だろう? 本間正己(人生カフェ) 11人

2017年6月4日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 大人の哲学カフェのこれまでとこれから(市民、企業内、医療……)寺田俊郎(カフェフィロ会員・上智大学) 18人

⑩2017年5月7日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 たまには、哲学カフェ(対話)の「ルール」について話してみませんか?齊藤充(対話学舎えんたらいふ)15人 

2017年4月2日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 お前、それはないだろう!?~「困った参加者」「嫌な参加者」などなど~中畑邦夫(竹林茶話会)8人

2017年3月5日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 哲学カフェにおける哲学性とか哲学対話って言うけど、それってなに?比良正彦8人

 

2017年2月5日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 哲学カフェの相互交流/協働にはどんなあり方が可能か?~そのミニマムからマキシマムまで~芹沢幸雄(さろん)14人 武田朋士(2007)「哲学カフェにおける対話と哲学性」を読む。

2017年1月8日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 なぜ私たちは哲学カフェで哲学するのか?本間正己(人生カフェ)13人 

2016年12月4日(日)午後1時30分~5時新宿区・大久保地域センター 空気に流されず、対話するにはどうする?佐野佳子(対話の実験室@交-差-転)8人

 

2016年11月6日(日)午後1時30分~5時新宿区・消費生活センター分館 あなたが目指す哲学対話とは 古川京(新橋・夜の対話カフェ)5人

 

2016年10月2日(日)午後1時30分~5時新宿区・戸塚地域センター 哲学カフェの楽しさと危うさ いちろう(ヨコハマタイワ)7人 

2016年7月3日(日)午後1時30分~5時新宿区・戸塚地域センター 哲学とは?対話とは?哲学対話とは?本間正己(人生カフェ)12人 

2016年4月17日(日)午後1時30分~5時新宿区・戸塚地域センター①哲学カフェの参加の動機は何か?②求められるファシリテーター(進行役)の資質とは何か?本間正己(人生カフェ)6人

過去の開催記録

【第40回記録】

 読書会:『ゼロからはじめる哲学対話(哲学プラクティス・ハンドブック)』(河野哲也編・ひつじ書房)

 

第40回東京メタ哲学カフェは令和2年11月28日(土)午後2時~5時、5名(男性3名、女性2名)の参加により行われました。zoomによるオンラインで実施しました。(進行役:本間正己)

少人数の参加でしたので、全員が自らの疑問や問いを話せて、活発な議論が行われ、充実した内容になりました。

 

最初に、参加者の自己紹介、活動紹介などを行った。

 次に、この本を読んでの全体的な感想を簡単に述べてもらった。

〇総合的、羅列的、参考書的  実践している研究者たち  目的に応じた哲学対話

〇ある程度参加した私には、網羅的で非常にいい本だと思いました。細かいことから大きなことまでかなり網羅してあると思いました。

〇全体を読んでいないので、単なる印象ですが、網羅性が高くてありがたいが、気軽には読めないので、読了できなかった。

〇歴史などの事実はとっても参考になったが、哲学対話自体のやり方などは、書き手にとっての「想い」がそれぞれに違って、全体としてどれを基準に考えたらよいのかわからないところもあったかも。

〇哲学対話を開催した人(ファシリテーター)に対して、不十分。哲学対話未経験の人に対して、誘因不十分。哲学対話に興味ある人に対して、特に必要がない。

 

 次に、各自から問いや疑問点を出してもらい、それぞれについて簡単なディスカッションを行った。

〇関連団体に「カフェフィロ」がないのは単なる記載漏れのミスか?

*単純な校閲ミス?

*本文中にカフェフィロはたびたび登場するので、あえて関連団体リストで紹介するまでもなかった?

 

〇P177「本当に困ったら、手を挙げるほどの積極性はない人に振ってみる」とあるがどうやって見わけるのか?

*話をしなくてもいいという自由は確保されるのがいい。また、沈黙の時間も大切である。

*その上で、ファシリテーターは対話が途切れた時やその会の中間または最後あたりに、「今まであまり発言されていない方で、何かお話ししたいことがあればどうぞ」というような促しをすることはあっていい。

 

〇P180誰かが哲学になっていないといったとしても、堂々と「これも哲学なんです」といえばいいのです」とあるがそんなに言い切れるファシリテーターはいるのだろうか?

〇ファシリテーターの哲学的素養について、本書の第4章くらいの知識があれば十分との記載がある(p45)。だが、この「素養」については、実際のところはどのくらいが望まれているのだろう?

*第4章を読むことによって、いろいろな問いが浮かんでくる。それは哲学対話のテーマ(問い)にできそうなものでもある。

*この本における第4章の意味合いは何か? 哲学への導入やヒントを得るため? ここでこの本を読み進めていくことに躓く人もいるのではないか。

*哲学的な専門知識は不要だと言う人もいるが………。

 

〇「序章 深い対話とはなにか」に(この本としての/自分自身としての)答えはあるか?

〇p155「思考の深まりは対話の流れによって決まるのです」(終わり3行)とは、どういうことか?

*何を深めるのか? 誰が深めるのか?

*哲学対話のビフォー・アフターの変化を見る。

*どのような新しい気づきや新しい問いが生まれたかに注目する。

*その会の目的に照合して、どの程度深まったかを測るということもあるのではないか?

(125P:「目的とファシリテーション」参照)

*会の目的については、会を存続していきたければ、運営者側は常に吟味・点検・見直しをしていかなければならない。

 

〇自分の意見を押し付けないこと VS 自分の意見を強く主張すること

テーマを深堀りすればするほど、意見のぶつかりはあたりまえ

発言しただけでだけ終わったら、この対話の価値はありますか?

「哲学対話」の「哲学」とはどういう意味か? 「哲学」という言葉は必要であるか?

*哲学対話は、普段、日常では考えないことを考える場である。当たり前と思っていることを問い、考える場である。

*前提や根本を問う場である。

*「そもそも」(本質)を問う、「人それぞれはなし」(共通了解、普遍性)などを強調する会もある。

*「哲学対話」と銘打っている会では、自らの哲学の意味合いを他の人に簡単にでも説明できるようにした方がいい。

 

〇この本はゼロから哲学対話をはじめる人のために本当にふさわしい本になっているか?

*哲学対話を全く経験していない人には無理であろう。

*これから哲学対話を初めて主催、運営しようという人に対してという意味だけではなく、それなりに実践を積み重ねてきた人がもう一度ゼロにリセットするための本とも言える。

 

 最後に、感想等を各自に話してもらった。

〇書籍と自分との距離、実践の意味

 どう実践を作っていくか?

〇ゼロ、 リセットできるか ゼロにリセットすべきか?

〇この本をディする。この本を誉める。この本を使う。この本は売れるか? この本を消化できるか?

〇哲学対話の特にどんなところに自分は価値を感じているのだろう?

想定の保留はどうなされるのか?

〇・主催者の考える「哲学」をしっかり伝える

・目的のない対話は意味がない、という人にどう説明すればよいのか?

(記録:本間正己)

【第39回記録】

テーマ:「質の高い」哲学カフェを目指してー「確認型応答」の提言と実習ー

講師:浅野良雄(対話法研究所所長、元・昭和大学兼任講師)

 

第39回東京メタ哲学カフェは令和2年5月31日(日)午後2時~4時30分、9名(男性6名、女性3名)の参加により実施されました。東京メタ哲学カフェでは初めてとなるzoomによるオンラインで実施しました。

前半は、浅野講師より「確認型応答」についてのレクチャーを中心に行いました。詳しい内容については、東京メタ哲学カフェの第37回目の記録や浅野講師の対話法研究所のホームページをご覧ください。

対話法研究所のWebサイト http://www.taiwahou.com/

 

確認型応答のポイントは、「相手が言いたいことの要点(に対する自分の理解が合っているかどうか)を、(想像や推測を交えて)相手に言葉で確かめる」ということです。

ですから、想像や推測が当たっている場合もあれば、当たっていない場合もあります。当たっていない(ズレている)場合は、お互いに協力して修正していけばいいのです。最初の段階で、聞き手は話し手に対して確認していく勇気があるといいですし、話し手の方も、ズレている場合は聞き手に対して、修正をお願いしていく勇気があるといいと思いました。まさにお互いに確認し合おうという気持ちが根底にあると、とてもいいと思いました。

 

実習の時間があまり取れず残念な面もありましたが、浅野講師の熱意に対して、質疑応答も活発に行われ、3月にオフライン(リアル)で実施された内容を深めることができました。

 

後半は、哲学カフェ的なことを行いました。テーマは「対話のゴールとは何か?」になりました。(これが多少ながらも確認型応答の実習のようにもなりました。)

 

最後に、参加者から本日の感想等をいただきました。(一部のみ掲載)

* 改めて確認型応答の意義を感じました。確認する勇気をもっと持ちたい。

*多様性と共感について思う。

*キリンを言葉で説明するよりも実物を見た方がわかりやすい。

*相手の考え、深層を引き出すためには、まず安心感を与える事が大切だと改めて感じました。

*確認型応答は、最終的な相手との関係性を心地よくするものに繋がるのかもしれない。

*対話は内在的理解を深めるために必要不可欠な方法だと思っています。

 

 今回zoomを使って実施したのですが、大きな違和感はなく、オンラインの可能性を感じました。

 

 浅野講師からのコメントもいただきましたので、以下に掲載します。(浅野講師にはありがとうございました。)

 

「東京メタ哲学カフェ」としては、3月に続く2回目の〈対話法〉でした。前回は、〈対話法〉の初歩的な解説をしたため、今回は、その「続き」を意識して内容を構成しました。そのため、後半は、〈対話法〉を活用する「哲学カフェ」を試みたのですが、講師の予想に反して、初参加の方が多かったため、ちょっと中途半端な構成になってしまったようです。しかし一方で、「哲学カフェ」という設定の中で、今後の〈対話法〉普及活動につながるヒントを、たくさんいただくことができました。特に、〈対話法〉の効果を、より見える形で伝える「方法」について、貴重な「問い」をいただきました。参加してくださった皆さんに感謝いたします

【第37回記録】テーマ:質の高い「対話」とはー哲学カフェにおける「確認型応答」導入のすすめー

講師:浅野良雄(対話法研究所所長、元・昭和大学兼任講師)

 

第37回東京メタ哲学カフェは令和2年3月15日(日)午後1時30分~4時30分、新宿消費生活センター分館にて、8名(男性7名、女性1名)の参加により実施されました。

今回、内容がとても好評であったとともに、今回、出席を見合わせた方のために、5月17日(日)または5月31日(日)に再度、実施することを計画しています。

以下は、講師の浅野良雄さんがお寄せくださった開催後記です。

 

「東京メタ哲学カフェ」でのセミナーを終えて

 

対話法研究所所長 浅野良雄

 

 今回は、新型コロナウイルスの影響により開催が危ぶまれましたが、主催者との協議の結果、開催に踏み切らせていただきました。なぜなら、延期したからとて、必ずしもその頃、安全な環境になっているとは限らないため、開催できる時に開催しておきたいという浅野の強い思いがあったからです。

 当日は、はじめに、〈対話法〉理論(浅野のオリジナル)の基本を1時間ほど語りました。そこでは、「哲学カフェ」に限らず、コミュニケーションに潜む「誤解」や「伝達ミス」の原因と、それらを防ぐための「確認型応答」(相手が言いたいことの要点を、相手に言葉で確かめること)の説明が中心でした。その中では、一般に、発言者(話し手)が「言いたいこと」と「言ったこと」を「海面に浮かぶ氷山の一角」にたとえて説明しました。つまり、私たちは、通常、「言いたいこと」のごくごく一部分した言葉に発していないこと。そして、それが一つの原因となって「誤解」や「伝達ミス」が生じること。そのため、その可能性に気づいた人(主として聞き手)が率先して、発言者に対して「確認型応答」をすることにより、「誤解」や「伝達ミス」を主因とする事態の悪化を防げることなどを力説しました。

 「伝達ミス」の怖さの実例として、今から50年ほど前にマイアミ空港の近くで起きた、パイロットと管制官との間のコミュニケーションエラーを主因とする「イースタン航空401便墜落事故」を紹介しました。

 後半のQ&Aと意見交換では、〈対話法〉考案者の浅野にとって想定外の質問も、いくつかいただきましたが、〈対話法〉の理論内で答えることができたので、内心、ホッとしました。

 最後に、当日の振り返りを兼ねて、一人ずつ感想を話していただきました。その中で、特に私の印象に残ったのは次のことでした。それは、〈対話法〉理論で言われていることが、ごく当たり前であるがゆえに、かえって見過ごされがちであること。そして、〈対話法〉の理論を、講師が熱意をこめて丁寧に説明していたこと。これらが、参加者にとって、経験したことのない不思議な感覚を喚起したこと、です。

 今回の催しが、今後の「哲学カフェ」活動の発展にとって、新たな一石となれたなら幸いです。

【第36回】〈哲学プラクティスをダメにしている当事者〉としての自覚を持とう  

2019年2月16日(日)午後1時30分~5時、新宿区・榎町地域センターにて、テーマ〈哲学プラクティスをダメにしている当事者〉としての自覚を持とう、ということで、哲学探偵さんに進行役をお願いした。参加者は11名(男性8名、女性3名)でした。

哲学探偵さんが話した内容等については、後日、探偵さんがまとめてくれたnoteがあるので、以下に掲げます。とても参考になります。

https://note.com/detective/n/n3a8076c37977

https://note.com/detective/n/n567d23ebd85f

https://note.com/detective/n/n293549b00779

https://note.com/detective/n/nbef0f7fe63dd

https://note.com/detective/n/n68d3dd5a2dca

【第35回】『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』(土屋陽介著)読書会

今回は、土屋陽介さんの本『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を取り上げました。

参加者は、僕と主催者の本間さんも含めて7名。他の方もほとんどが哲学カフェの主催者側の人(そうでない人も教育的な背景がある方)なので、濃い話ができました。

土屋さんの本を取り上げたのは、まず先に、最近、色々と出版されている、哲学研究者が書いた哲学対話についての本のどれかを取り上げたかったという動機があったのだけど、結果として、土屋さんの本にしたのはよかったように思います。

土屋さんの本の魅力は、やわらかい文章のなかに漂う哲学的厳しさの匂いにあると思います。僕は永井均さんの信者なので、永井さんの弟子である土屋さんの文章のなかに漂っているのは永井的な匂いだと思っています。そのあたりの話ができたのは永井信者としてはとてもうれしかったのです。(正確には永井さんよりは入不二基義さんのファンですが・・・)

収穫としては、僕は、哲学と哲学対話、そして哲学対話と会話を、全てつながったものとして捉えたいという思いがあるけれど、今回の参加者の多くはそう考えていないということが大きな発見でした。

ということは、哲学カフェの主催者の多くは、哲学対話を、哲学とも会話とも異なる、独自のものだと位置づけているということになりますね。

それを示す発言としては、例えば、「哲学対話というのは(哲学のように)常に真理を求めるものではない。」、「哲学カフェとは、(哲学のような精緻な議論ではなく)カラオケ大会のようなものだ。」、「哲学対話での発言は、(哲学的な真理だけでなく)聞き手のケアを考慮して行うべきだ。」、「哲学対話とは(会話とは違って、)本気で発言するものだ。」といったものがありました。

どうも、全てつながっているという僕のアイディアは旗色が悪いですねえ・・・
(土屋さんの本では、哲学対話と会話は別だけど、哲学と哲学対話はつながっているとしていて、その部分では、僕・土屋連合軍vsその他の参加者という図式が成立しているので、完全に旗色が悪いとまでは言えないかも・・・)

他に出た話として、特に書き残しておきたいのは、色々話した末に、哲学対話とは「新しい気付き」を求めるものだ、という(当面の)結論に至ったということです。つまり「哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場である。その点でデザインされていない会話とは異なる。」という見解にたどり着いたのです。(僕なりのまとめですが。)なかなかいい結論だと思いませんか。

それ以外にも、「大人の哲学対話と子供の哲学対話の違いは何か。」、「哲学対話は共同体を構築するのに役立つのではないか。」などなど、興味深い問題提起がありましたが、今現在の僕の問題意識を重視し、進行役として、その方向にはあまり踏み込みませんでした。すみません。また今度そっちの話もやりたいですね。

今回の会は、とても楽しくて、色々考えさせられました。参加者の皆様ありがとうございました。また、楽しいカラオケ大会をしましょう??

あんまり楽しかったので、ここで書いたことの続きは、僕のブログで書かせていただきました。(http://dialogue.135.jp/2020/01/22/toumeta/

【第34回】「東京/日本 の 哲学カフェ/哲学対話 の 今年は?/来年は?」

 

 令和元年12月1日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、3名(男性2名・女性1名)の参加で実施した。

 テーマは「東京/日本 の 哲学カフェ/哲学対話 の 今年は?/来年は?」であり、進行役は本間正己(人生カフェ)が行った。

 各参加者から2つずつテーマを出してもらい、一つずつ取り上げ自由に対話した。

●哲学caféに来る人々が興味を持たない、又は気付いていない事柄に関して話す方法は有るか?

*興味を持たない事柄を無理に話す必要はあるのか?

*哲学カフェのテーマとしては、①価値、②情緒(感情)、③認識(社会問題)に分類できる。①と②は参加者の体験から話せるので、やりやすい。③は参加者の知識の差が出るので、一緒に話すことは難しいことがある。ただし、これも問いの立て方によって、対話がしやすいテーマにできる。

*テーマについての当事者が参加すると話が盛り上がる。

*「Posterを見て対話~見る・分かる・見立て直す~」「ボドゲをしながら対話」の実践

●哲学の身体化

*左脳ではなく、右脳を働かせる。

*眠たくなる、病気になる、死ぬ…ところの身体。それはAIではない。

*哲学カフェに足を運んで参加するということ自体、一つの身体性の発揮である。

*演ずる、演劇の意味合い。

*即興(インプレ)、ロール・プレイング……ヒーリングの意味合い。

*哲学コント 史上最強の夫婦漫談!?「彗星がやって来た」(池田晶子著『帰って来たソクラテス』に拠る) ソクラテスとクサンチッペの対話? 漫談? の実践

*哲学(対話)と演劇のコラボ、クロスオーバーの実践はいくつかあるが、今のところ断片的な印象である。今後に可能性がある分野である。

*日本の演劇では対話劇が少ない。

●哲学相談と哲学対話

*哲学相談を受けに行きにくい。相談を受ける人の力量、資格の問題、相性の問題、さらに背景となっている哲学が何かなど、分からなくて不安は大きい。

*相談する人にも、自らを探求していくという意欲と強さがないと哲学相談はできないのではないか。

●哲学caféに来て空気を読まないで済む場を作れるか?

*対話がしやすいのは6人くらいである。人数は重要である。

*アイスブレイクも意味がある。

*「まとまってなくても発言していい」というのは気後れしている女性には発言しやすくなるいいルールである。

*質問、確認などの応答が自由にできる空間を作ることが大切である。

*空気を読んだ上でもあえて発言するには勇気がいる。ファシリテーターも、参加者も、その勇気は必要である。

●哲学対話のタイプ

 ①癒し、ケア (コミュニケーション、コミュニティ作り)

 ②よりよいものを探求する  (プラトン的)

 ③既存の考え方を破壊する  (ソクラテス的)

*①と②は話しやすい。③は話すのに勇気がいる。場の空気に抵抗しなくてはならない。

●マイノリティ問題

 ①哲学カフェの場と一般社会の場(会社など)とのズレ。哲学カフェに参加する人はマイノリティであり、哲学カフェは特殊な場である。

 ②性的マイノリティ、外国人問題、障碍者問題など

*性的マイノリティ等の人たちは自分たちの島宇宙の中で活動(哲学カフェなど)をしていくしかないか。一般の哲学カフェで自らの問題を出しても、対話がしにくい状況がある。

*現代は、たとえ1%しかいないマイノリティでもネット等で結びつくことはできる。

*ここでも「当事者性」がキーワードになる。

 

 最後に、参加者から感想等をフリップに書いてもらった。

〇哲学caféの内と外との関係について改めて考えた。

〇身体(⇒演劇)と言語(⇒哲学)について考えた。

〇なつかしさとスリリングの同居

(記録:本間正己)

【第33回】

「日本の哲学プラクティスについて思っていること」木村史人(立正大学)

 

第33回東京メタ哲学カフェが、令和元年10月20日(日)午後1時30分から5時まで、新宿区榎町地域センターで開催された。

 木村史人さん(立正大学)を講師&進行役でお招きし、「日本の哲学プラクティスについて思っていること」というテーマで実施した。

 参加者は12名(内、学生3名)だった。

 

【開催案内リード文】

哲学プラクティス連絡会の大会は5回を数えました。また、日本哲学プラクティス学会は昨年に発足しました。哲学カフェ、哲学相談、哲学コンサルティング、子ども哲学、企業内哲学対話、高齢者哲学対話……。今後どのような分野が発展し、どのような分野が職業化していくでしょうか? 哲学プラクティスの倫理、権威化、資格化、マネタイズなどが気になってきました。いずれにせよ、この分野の将来を想像するとともに、その発展を願って、開催したいと思います。

この一連の流れを見てきた立正大学の木村史人さんに、日本の哲学プラクティスについて思っていることをざっくばらんに語っていただきます。さらに、参加者同士で情報交換したり、自由に意見交換したりしたいと考えています。

 

【木村さんの話】

 冒頭にお話しくださった木村さんのお話の内容の記録については、木村さんが作成してくれていたパワーポイント原稿をここに掲載させていただくことにする。

 

東京メタ哲学カフェ 2019.10.20
「日本の哲学プラクティスについて思っていること」 木村史人

 

哲学カフェ(哲学対話)と権威の関係

①日本哲学プラクティス学会の発足

 哲学プラクティス研究の推進、ファシリテーターの資格化、金銭の発生

②今後の哲学プラクティスについて

 

①日本哲学プラクティス学会の発足

 哲学プラクティス研究の推進、ファシリテーターの資格化、金銭の発生

 ← 基本的に肯定すべきこと

【理由】研究者の業績の確保、哲学の社会的な立場の確立、ファシリテーターの質の向上、哲学に携わる者の糊口をしのぐ

 →しかし、懸念もある

 

哲学プラクティス研究の推進への懸念

研究による哲学カフェ(哲学対話)の変質

研究とは、一般に対象からの距離を必要とする

 →哲学カフェ(哲学対話)の内に身を置くことを困難にするのでは?

 「スポーツ」と「スポーツ科学(医学)」

 スポーツ選手(実践者)とスポーツ学者がほとんど重ならない(同時に行うことが難しい)

 

 →研究による知見の蓄積によって、哲学カフェ(哲学対話)における「権威」が発生する(それによるヒエラルキーが成立する)のでは?

 スポーツ学がデータになりやすい物理的な現象を対象とするのに対して、哲学プラクティスの研究においては、哲学カフェでの気づきや感動、解放感は、データになりにくい(客観的に測定しにくい)現象。

 ※哲学カフェの物理的な側面、開催中の数や形態、集客数、その歴史や変遷などはデータとして集積可能。

 ※方法の有効性の比較研究も可能であり、これらに特有の意義があることは確か。

 

研究とは?  研究と研鑽

「研鑽」~達人のコツのようなものの習得?

 ~言語化、データ化、マニュアル化することが難しい

 ~狭義の研究では捉えにくい

哲学プラクティス/哲学対話における研鑽とは?

 ※対話の内容の蓄積は、除外

①対話の進め方への習熟

②対話の姿勢の変化

③哲学的な発想と思考の上昇

 

①と②を研鑽 →より良い哲学対話を実現できるようになる (特に②は、重要ですが、難しい)

③が向上することによって、哲学対話の能力がより向上するとは、すぐには言えない?

 ~③が向上することによって、哲学対話の必然性がなくなる? レベルの差が生じてしまい、本気の哲学対話が阻害される?

 ←②の姿勢が身についていないことで起こるのでは?

 

ファシリテーターの資格化、金銭の発生への懸念

資格の有無によって、「権威」が発生するのでは?

 金銭が発生することによって、「権威」が発生するのでは?

~そもそもファシリテーターの役割とは?

 「資格化」とはそもそも可能なのか?

 どのような「技能」を資格化するのか?

 (良い哲学カフェ(哲学対話)をするために、)そもそもファシリテーターは必要なのか? 

 【個人的意見】参加者それぞれが、ファシリテーター的意識、つまり哲学カフェの議論が生産的になるためにはどうすればよいかを理解し、議論を深化させるために協力する

 

権威化は悪いのか?

  哲学カフェ(哲学対話)の特徴のひとつは、「対等性」にある

   それゆえに、知識の披見、(場のルールによっては)自己紹介も、抑制される。

   権威は、そのような「対等性」を棄損するがゆえに、哲学カフェ(哲学対話)を棄損する可能性がある。

   ⇐むしろ権威が哲学カフェ(哲学対話)をよりよいものにする可能性もあるかも?(検討課題)

 

②今後の哲学プラクティスについて

新しい哲学カフェを作ることの意義は?

 ~哲学カフェで議論をしたければ、既存の哲学カフェへ行くのが最も効率的

新しく哲学カフェを始める必然性は、

①これまでになかったようなコンセプト、テーマの哲学カフェを作りたい

②自分(たち)が中心となれる哲学カフェを作りたい(中心になるというのは、企画やファシリテーターとなるということや、場所や時間も自分(たち)でコントロールしたい

 

新しい哲学カフェの形を模索してよいのでは?

  ※すでに、「暗闇」や「散歩」(?)、「芸術作品を鑑賞しながら」、「料理をしながら」

    【Ris哲合宿企画】「無言(ホワイトボードやlineで議論する)」、「575(575でしゃべらなければならない)」、「何か食べないと発言できない」、「ウェブラジオでその場にいない人との対話」などの企画

   その必要はないのかも?

   現在の哲学カフェが完成形か?

 

【木村さんへの質疑応答】

(一部のみ記録しました)

Q1:哲学プラクティスの実践って何ですか? プラクティスって何ですか?(プラクティスって、そもそも実践のことではないですか?)

A1:確かに「プラクティス」と「実践」とは表現として重複しているが、あえて「実践」という場合は、哲学プラクティスについての関わり方として「研究」に対する「実践」という分け方であると思う。

哲学することはそもそも実践であるため、2500年間、哲学の実践は行われてきたとも言える。現在、「哲学プラクティス」と言われているのは、従来の哲学を前提にせずに、自分で問いを立て、自分で考えるという意味合いで使われていると思われる。

 私は、哲学とは日常では当たり前と思われていること、日常的なことをメタ的に考えることだと思っている。

Q2:哲学プラクティス(哲学対話)とソクラテスの関係は?

A2:ソクラテスの対話編では対等関係ではなく、知者(ソクラテス)がそうではない人を導いていくという展開が多いため、現在の哲学プラクティス/哲学カフェでは対等な議論を志向するという点で、異なっているように思われる。

 私が何篇化か書いた対話篇が、4,5人のチャットの形式を取ることが多いのは、1対1の対話よりも、哲学カフェにおける複数性を適切に表現できると考えたためである。

Q3:哲学の研究をしている人たちで、その哲学を実際生活に生かしていない人たちがいるのでは?

A3:これは耳が痛い問題ではあるが、哲学の研究と自分の実践、生活は一応分けて考えてもいいのではないかと考えている。

 自らに欠けているところについて、問題意識を持ち、研究しているということは往々にしてある。人間関係に悩んでいる、倫理的に弱いから、他者論や倫理学を研究するということなどである。だから往々にして、それらに不得手な人がその分野の専門家になることがあるといえる。

Q4:現状は定義が不十分だと思われるが、改めて「哲学プラクティス」とは何か?

A4:先の哲学プラクティス連絡会では、この会でなされていることの総称である、というような言い方をしていた。そうだとすると、「哲学プラクティス」という概念がまずあるというわけではなく、帰納法的に定義されてくるということになるだろう。しかし、やっている人たちが個人個人で定義などをしっかりと考えていくことは、大切だと思う。

Q5:研鑽を積まなくても、他者の視点というものを人は日常的に持っているのではないか?

A5:この場合の他者性とは、前もって想像できないような、強い意味での他者性を想定していた。研鑽を積むと、そのような強い他者性を自らの中に持つことができるかもしれない。それが本当にできるのは神様か多重人格者かもしれないが(笑)

Q6:哲学プラクティス研究は哲学カフェについての研究だけではないですよね?

A6:学会では、哲学カフェの実践の研究だけではなく、海外の動向、手法の紹介や哲学思想を使って哲学対話を位置づけるといった発表もあった。

Q7:哲学プラクティスに命を懸けている人はいるのか?

A7:哲学に命を懸けている人、哲学プラクティスに命を懸けている人はいると思う。

Q8:哲学カフェに何を求めているのか、哲学と何で名乗っているのか、といったことは、研究テーマになるか?

A8:それらは哲学プラクティスの研究課題になると思う。

Q9:哲学カフェなどのなかでも、思考、態度、風土などの面で様々なものが出てきている中で、どのように考えていったらいいか?

A9:一定水準を保つための資格化の問題とも絡んでくる。

 参加した人たちががっかりしないような哲学カフェであってほしい。一方で、これは哲学カフェとは言えないということで切り捨てるというのはもったいないというか、気が咎める。フトコロ深く捉えていきたい面もある。

 

A10:哲学プラクティス学会はもっと実践者、研究者ではない方たちに開かれたものとなったほうがよいのではないかと、個人的には考えている。

 

【参加者からの問い出し】

〈理念的なこと〉

*哲学カフェへの期待はどのような方向(流れ)に進むか?

*哲学カフェに何かを求めて来る人たちこそは、哲学プラクティスを実行しているのでは?

*哲学プラクティスとは何ではないのか?

*哲学カフェと井戸端会議は何が違うのか?

*どうすれば「哲学してる」を確認できるか?

*理想的な哲学カフェの要件は何か?

〈実際的なこと〉

*哲学対話における「反論」とは、どういうスキル・姿勢なのか?

*哲学プラクティスは世の中に何か影響を与えてきたか?

*哲学プラクティスとしてどのような活動が行われてきたか?

*哲学カフェで行われている「対話」について、どの程度参加者に認知されているのか?

*できるところからマニュアル化するのでもいいのではないか?

*哲学プラクティショナーの資格化と職業化は今後どうなっていくのがいいだろうか?

*哲学カフェを学生が運営することはできるか?

*日頃の実践と東京メタ哲学カフェと連絡会と学会との関係は今後どうなっていくのがいいだろうか?

 

【対話(フリーディスカッション)】

(一部のみ記録しました)

*木村さんにファシリテーター(進行役)をお願いした。最初の3/4くらいは、参加者から出された理念的な問いについて、後の1/4くらいは実際的な問いも含めて対話が進行した。

〇人は哲学カフェに何を期待して来るのか?

――知的な話をしたい。

――他のところでは言えないようなことを話したい。

――自由に話ができる。

〇哲学対話/哲学カフェ/哲学プラクティスの定義とは?

――「対話」という手法を主に使っている実践では?

――全てが哲学プラクティスであって、哲学プラクティスでないものはないのではないか。問いがなくても哲学的なことを話していれば、それは哲学プラクティスである。

――それでは哲学プラクティスについての限定がないため、哲学プラクティスについて何も語れなくなるのではないか。

――哲学プラクティスの実際の内容としては、哲学カフェ、哲学相談(哲学カウンセリング)、哲学コンサルティングなどを代表例として、参加者別には子ども、学生、企業人、中高年、母親など、場所別には病院、福祉施設、会社、街中など、手法としては対話だけでなく、絵画、映画、小説、料理などを利用することなどが挙げられる。

〇哲学と対話の関係は? 哲学と対話は必然的に結びつくのか? それとも別のことなのか?

――「問い」を出発点にする、問い続ける、といった姿勢を表明するために、対話の前に哲学という言葉を付けているのでは?

――対話には対等性が求められる。

――哲学は対話をしなくてもできるのでは?

〇「理想的な哲学カフェの要件」の話にいきましょう。

――対話ができていること。人の話をちゃんと聞いていること。「代弁法」(人の話を要約して代弁する)を試してみると、いかに人の話を聞いていないかが分かる。もう一つの要件は哲学していること。ひとつの問いから、本質に迫る、次々に新しい問いを考えていくことができているということ。

――真理の探究をしていること。根源に遡って考えること。これらを確認し合いながら積み上げ、深めていくことができると、理想的だと考えている。(例えば、黒板に書くという手法を使いながら)

――真理の探究という言い方は、うさん臭く、抵抗がある人も多いのではないか? 現代の相対主義的な人からすれば、真理などはない、という言い方も成り立つ。

――真理観(真理の捉え方)によると思う。真理とは矛盾を含んだものとして成り立っていると捉えるならば、抵抗感は薄いだろう。

――哲学カフェは誰かが真理を知っているというようなものではなくて、真理らしきものがあるので、それに向かってがんばっていくというような試みではないか。

また、理想的な哲学カフェにはファシリテーターはいらないと考えている。参加者みんなが対話をより良いモノにするというファシリテーター的な意識を持って作り上げていくことができるのが、理想的ではないか。

〇理想的な哲学カフェにおけるファシリテーターの役割とは?

――指示するとか操作するとかというのではなく、その人に付いていく、寄り添っていくといったファシリテーションをしている。

――あえて「進めない」というファシリテーションを実験的にした。条件(必要・十分)をしっかりと吟味していく。スキップしがちな話の展開を抑える方のファシリテーションも重要である。

――応答の仕方として、①発表型、②質問型、③確認型、というのがある。後ろにいくほど行うのが難しいのだが、話が深まっていく方法なので、取り入れていくのがいい。

――「分からない」場合に、「分からない」とちゃんと言うことが大事。そして、分からないところを相手に説明してもらうようにすることが大事。

〇対話スキルに関しては、ある程度言語化、データ化、マニュアル化できるのではないか。(名人芸の領域は無理にしても)

――マニュアル化はある程度できるにしても、どのような時に、どのような場面において発動するかなどについては参加者の状況などにより異なり、難しいところがあるのではないか。

――こういうスキルが必要だという言い方はできると思う。

○はじめは哲学プラクティスの研究は哲学的ではないように考えていたが、本日の議論を通じて、哲学プラクティス研究は実践をメタ的に考察していくことなので、哲学の実践のひとつになりうると思った。

 

【アンケート結果】

1 意見・感想

2 質問・問い

3 その他

 

【A】

1 哲学プラクティスの研究という分野が成立するということが分かった。

2 私が哲学カフェに求めるものは個人的な完成とか充実とかであったが、もっと他者を意識するようなものに変わりつつあります。

【B】

1 後半(休憩後)は、かなり対話らしくなってきたと思いました。

2 共通点を探っていくプロセスの一つが「反論」なのだと実感しました。

3 今回くらいの人数が対話をする上で、丁度よいように思いました。

【C】

1 哲学対話とは何か、みたいな話に常に立ち返らざるを得ないのは面白くもあり、煮詰まりそうでもあり、という気がしますね。

 東京メタ哲学カフェをどうするか、という問題は難しいですね。

2 理想とする哲学カフェをひとつに絞れるのか?

【D】

1 哲学カフェを知りたい、哲学カフェを実践したいと思っていたので、本日の会の中で、理想的な哲学カフェの要件の考え方や進め方を学び、確認できてよかったです。

【E】

1 どのような活動が哲学プラクティスとして挙げられるかという話があまり出なかった。

2 どのような哲学カフェが求められているか?

【F】

1 感想は面白かったです。

 解らない(主旨か)意見か沢山出され、

それをどこまで理解したか、「解らない」と質問したか、できたか、できるか、

 対話が徹底できなかった

【G】

1 もっとオープンに話すべきテーマと再確認した。

【H】

1 大学生以下の参加者がもう少しいるとよかった。

 哲学プラクティスに関しては代弁法や反論の種類など、スキル面の分析を聞くことができたのでよかった。

2 哲学対話において有効な状況設定(くらやみ、料理など)と、そうでないものとは何か? 

【I】

1 メタ的な視点で哲学カフェについて議論することは初めてだったので、新鮮であったと同時にこのような会の重要性を感じた。
 質問でも話したが、やはり井戸端会議と哲学カフェは違うようである。学生間でカフェを行うとなんとなく始まりなんとなく終わることも多い。やり方云々もあるが、哲学的熱意、態度がなければ誰のためにもならないカフェになってしまうと感じた。それはそれである層を排除してしまうのだが、個人的には哲学カフェとはそういう場でも良いと感じた会であった。
2 前述の感想から派生して、哲学的熱意ないものは排除する傾向にあっても良いのか、という疑問が浮かんだ。(しかしこれは学生主体で学内において、ゆるく開催するために起こる問題かもしれない)
3 次回も参加したいと感じました。よろしくお願い致します。

【本間正己】

1 木村先生にはありがとうございました。とても刺激になりました。

印象に残ったこと

〈研究と研鑚〉

 やはり研究と研鑚は分けて考察していきたい。研鑚の中でもスキルアップについては言語化、マニュアル化はある程度できる。そのための努力には敬意を表したい。

〈理想的な哲学カフェ〉

 一律に理想像を提示することは困難だと思われるが、少なくとも「ゆる哲」と「ガチ哲」とに分けて考察するのがいい。

2 哲学カフェ・哲学対話においては、参加者の「対等性」が必須のように思われるということが確認されたが、その対等性と「複数性」はどう関係するか?

 また、改めて、参加者の「他者性」の問題を考えてみたくなった。

【木村史人】

1 呼んで頂いてありがとうございました。

 「哲学プラクティスとは何か・」は明確に定義できていないので、今後の課題になるかと思います。

2 理想的な哲学カフェとは何か?

 真理とは何か?

 今日は女性が少ないのはどうしてか?

3 ありがとうございました!!

【第32回】

テーマ「哲学相談の危険性について考える」

講師&進行役:安本史帆(みんなのてつがくCLAFA代表)

 

 第32回東京メタ哲学カフェが、令和元年9月23日(月・祝)午後1時30分から5時まで、高田馬場の消費生活センター分館で開催された。

 安本史帆さん(みんなのてつがくCLAFA代表)を講師&進行役でお招きし、「哲学相談の危険性について考える」というテーマで実施した。

 参加者はスタッフも含めて17名(男性8名、女性9名)だった。哲学カフェ・哲学対話等の運営者が過半数だったが、哲学相談の話をまとまって聞くのは初めてという人が半数近くいた。

 

【安本さんのお話】

 最初に、安本さんの自己紹介があった。(案内チラシに掲載したものを以下に再掲します。)

 

「哲学ママ」として、子どもの哲学や、発達の特性に関わる、生きづらさを感じる方々のリカバリーを中心に地域や学校、大学、自立支援事業所などで活動中。親子哲学相談、高校生、大学生、社会人との哲学相談も行っている。 

〈WORKS〉

みんなのてつがくCLAFA代表。犬てつ、CLAFA対話のアトリエ椙山女学園大学附属椙山幼稚園クラス、犬てつ「子どもの哲学実践ワークショップ」リカバリーカレッジ立川「てつがくカフェ」「当事者研究」、リカバリーカレッジ名古屋「てつがくカフェ」など。

 

 次に、安本さんが実践してきた哲学相談の話があった。これと同様な内容は、哲学プラクティス連絡会・機関誌に投稿されたものにうまくまとめられているので、ぜひ参照していただきたい。

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2019/08/09.pdf

 

 その投稿の論考の見出しだけをここに記しておく。

 

「哲学相談実践報告―どこからが哲学相談か?」概要

  • なぜ哲学相談をし始めたのか

  • 実践報告より

    • 相談者について

    • 相談内容について

  • 参加者と共に考えたかったことについて

    • 「うまくいく」「うまくいかない」と感じるのはどういうことか

    • 「相談する側」「相談される側」という立場は必要か

  • 質問すること、語りを聴くことの危険性について

  • 哲学相談には何ができるのか

 

 この論考にはあまり書かれていないが、今回のお話の中で印象に残ったことをいくつか記録しておく。

〇相談者(相談に来る人)が抱えている「ゴリゴリしたもの」(強固な前提・思い込みのようなもの)を覆すのには(それまでたくさん受けてきた心理相談的なものでは難しい場合に)、哲学的なものが役に立つことがある。

〇当事者研究的な哲学相談もあれば、哲学相談的な当事者研究もある。それは哲学対話と哲学相談との関係でも同様である。

〇今年の1~3月に東大での研究会では、相談する側と相談される側の役割意識は必要という意見が多かったという。心理相談やコーチングなどの分野ではそれは基本ともいえる。このような「相談」という分野の常識の中で、「対等性」というのはどう考えていったらいいのか。

〇哲学対話では実施後に「うまくいった」「いかなかった」というのはほとんど気にならないが、哲学相談の場合は、「うまくいった」「いかなかった」というのが気になる。

〇1対1の相談は恐い気持ちがしてきている。複数の相談のよさというものがあると思う。

 

【安本さんへの質疑応答】

Q1:「相談される側の人」はどう呼ぶのか? 「カウンセラー」か? 「哲学者」か?

A1:私は「一緒に考える人」というくらいに呼びたい。人によって重きを置くところは異なると思うが、私は「カウンセラー」「哲学者」とは呼ばない。

Q2:どのようなライフスタイルで哲学対話・相談の活動をしているか?

A2:主婦業以上に(?)、忙しくやっている。名古屋ではこの分野をやっている人が少ないので、いろいろなところから呼ばれてやっている。移動時間・経費などを考えるとコスパ悪くやっている。

Q3:発達障害の人などは頭が良すぎるし、大体がカウンセリングや相談などはムリではないか?

A3:確かにとても難しいが、必要だと思っている人、変わりたいと思っている人などに対して、重りをはずすということに多少の手伝いができるのでは…。

Q4:哲学相談を受けるにあたってお金を取るのか?

A4:無料だと相談者との境界がなくなる危険性があるので、お金は取っている。

Q5:相談の対象者はどんな人か?

A5:私は今までは、生きているのがしんどい人、悩んでいる人が主であった。哲学相談は悩んでいる人でなくてもいいのではないかという意見がある。

Q6:哲学相談の目的・ゴールは何か?

A6:私は「自由」であると考えている。自立(律)とは異なる。生き辛さを抱えている、悪化していく人たちがいる。その人たちの重り、鎖が外れていく、解放としての「自由」である。

Q7:発達障害などの人は、臨床心理、心理カウンセリング、教育カウンセリングなどが最初の相談になるのではないか?

A7:現状の心理・教育カウンセリングなどには不満な人は多い。また、このような場にハードルの高さを感じる人たちがいる。(決めつけ的なレッテルを貼られるのではという心配) 

「哲学相談」というものにかえってハードルの低さを感じる人がいる。私が当事者・経験者というのも相談しやすい一因だろう。

Q8:国家資格もある心理の専門分野の人たちから学ぶことはあるのではないか?

A8:当然、隣接領域の心理の専門分野から学ぶことは多い。しかし、単に資格があるからいいというのではない。人によるところもある。だからこそ哲学相談の可能性があるともいえる。

Q9:哲学相談は誰でもできるのか? どういうものがあればできるのか?

A9:誰でもができるというものではない。悩みなどを引き受ける覚悟がないと、本気でないと無理である。

Q10:哲学相談には哲学の知識があった方がいいのか? 哲学史の知識が0でも大丈夫か?

A10:哲学の知識はある程度あった方がいい。哲学相談というからには、哲学の知識が0では無理だろう、とは思う。

Q11:相談している人が「殺したい」という気持ちを持っている時、相談される人は「殺すのはよくない」ということを根底に持っていた方がいいのか?

A11:相談する人と相談される人が、同じく真理の探究の共同者であるならば、「殺すのはダメ」ということから出発するのではなく、「殺す」とは何かから一緒に考えたい。

 とはいっても、これは、殺すのがいい・悪い、のどちらにいくか分からないという危険性がある。しかし、相談する人に考える力が備わっており、正しく考えていけば、単純に、殺すのがいい、という結論にはならないはずだという見解もある。

 実際にうまくいった事例はある。また、丁寧な対話によって少なくともクールダウン効果はある。

Q12:哲学対話に限界を感じている人が安易に哲学相談に飛びついて、過大に期待するのは危険ではないか?

A12:東京と地方の違いもある。地方は哲学対話も十分には理解されないで実施されている面がある。

哲学相談も含めて、危険はいっぱいある。私も含めて悩みながら実践しているのだが、簡単に考えてやってしまう人たちがいる。

【参加者全員による対話】

 安本さんから対話の前提になるようなこととして、案内チラシのリード文に書いてあるような内容のものが話されたので、再掲しておく。

 

◎テーマ 「哲学相談の危険性について考える」

 哲学プラクティスの一翼として、「哲学相談(カウンセリング)」という活動について見聞きすることがあります。しかし、その理論・対象・方法・実践に関しては、これという定義が定まってはいません。だからこそ、様々な方と何をもって「哲学相談」とするのか、「哲学相談」とはなにか、を議論するべきだと考えています。とはいえ、今はまだ、同じような実践をされて具体的な迷いを持たれている方や、同じような研究をされている方とともに悩みや失敗のケースを共有する段階にあるのではないかという考えもありますし、だからこそ危険であることも含めて様々な人に哲学相談を広め、考えていくべきなのだというご意見もあります。そのような背景があり、今回の問いは、「哲学相談の定義や危険性を広くオープンに問うべきか、今はまだ狭い範囲で問うべきか」についてみなさまのお知恵を拝借したいと考えております。

 

 また、安本さんから、8月25日に予定されていた哲学プラクティス連絡会第5回大会におけるワークショップ「哲学相談に「する/される」はあるのか?-対等とは何かを考える」が中止になった経緯が簡単に説明された。この時点でワークショップを行うことへの躊躇などが述べられた。

 

(以下、対話の一部を記録)

〇「狭い」を専門家のみと捉えるなら、専門家同士がやることはたくさんある。心理相談などの隣接領域の蓄積の摂取、外国の実践の紹介、専門家の養成・訓練の方法の確立、相談者・相談内容の分析等々である。「広い」は一般の人たちと考えるなら、哲学相談を世間から遊離させないために、その危険性などについて、ともに話し合うことは必要である。日本に哲学相談を定着させるという目的からすると、狭いことも広いことも同時並行的に行っていくことが望ましい。

〇安本さんの危険だということの意味合いは、端的に言えば、「人が死ぬ」ということ。哲学相談を広めるというのは難しい。哲学相談をできる人は少ない。

〇相談者に自殺者が出てから、あるいは社会問題化してから考えるのでは遅すぎる。

〇哲学相談に効能があるならば、まずは哲学プラクティショナーを育てることである。

〇哲学相談の実践を積み重ねてきて、他と識別できるほどになれば、家元制度的(?)にして、経済的に成り立つのではないか。

〇哲学プラクティス連絡会・学会は日本哲学会、日本心理学会などに比べると、小さく狭い。また、フェミニズム学会などではカウンセラー資格を付与している。

〇相談のトリアージ、すなわち役割分担は重要であり、その中で哲学相談も位置づいていくのではないか。

〇哲学相談が効く人とはどんな人かというと、ひとつは自分の考えを掘る強さを持っている人というのがいえる。それは自分の軸がある人ということであり、軸がない人はガラガラに壊れる危険性がある。

〇絶対に安全で完璧なカウンセリングというものはない。どんなベテランでも失敗をしているし、起こってはならないことが起こっている。心理分野で国家資格はできたが、失敗はなくならない。しかし、心理相談には知見の積み上げがあるので、学ぶ必要がある。哲学相談は言葉が中心で行われるので限界もある。身体やイメージを利用した相談などがあることも認識しておいた方がいい。

〇哲学相談の効果がある人とは、本気で悩んでいる人、答えを欲している人である。

〇相談者のタイプ、話される内容・テーマの分類や分析の研究は必要である。例えば、相談内容は一般的なことなのか、個人的(当事者的)なことなのかといった分類・分析である。

〇メンタルな病気が強い人は哲学相談を受けない方がいいような気もするが…。

〇病気な人は対話ができないわけではない。子どもと同じように、当事者性の強い疑問を持っていて、それが単なるアドバイスを出し合うだけの会ではなくなり、逆に深い話ができることが多い。

〇病気の人を解きほぐすことができる人というのは実際には少ないのではないか。

〇病気といっても、段階がある。急性期なのか回復期なのかによっても異なる。対応も、1対1がいいのか、グループの方がいいのか、といったこともある。

〇哲学プラクティス連絡会は広い場なのか?狭い場なのか?

〇理念的には、誰でも参加できるので、広く開かれた場である。

〇実態的には、(先の大会を見て思うのだが)、ある程度実践している人や研究者が中心で、同じような顔ぶれになり、縮小してきており、狭くなっている感じもある。

〇連絡会は対外的・社会的にはまだ大きな影響力を持っているわけではない。

〇自分たちがやっている実践や研究を、「こんなにやっています、ほめてください」という発表では、あえて聞きにいかないだろう。

〇連絡会には一人では行きにくい。プラクティショナー的な人が集まっているようなイメージで敷居が高い。

〇相談における対等性の問題(相談する/相談されるの問題)については、例えば、相談する/相談されるという役割を交換するという実践をしている。

〇哲学相談における危険性、傷つきやすさ、倫理などの問題は重要な問題である。哲学プラクティス全体の中で、哲学相談に如実に、典型的に現れる問題である。哲学相談の分野において、しっかりと検討・研究しておかないと、哲学プラクティス全体の土台が崩れる危険がある。

〇相談の始めの頃は危険性が少ない。ある程度相談が経過し、ラポールができ始めた頃からが危ない。

〇相談される側は、悩み、苦しんでいる人とともに考える覚悟と決断が必要である。単なる興味だけではできない。

〇「覚悟」とともに、「技術」と「思想」が必要である。

〇哲学相談そのものは開かれた場なのか?

〇一般的には、哲学相談について点検し、検討し、研究するなどの話す場は開かれている。相談者その人や相談内容などの個人的なものは、当然閉じておかなくてはならない。

第32回東京メタ哲学カフェ・アンケート結果

「哲学相談の危険性について考える」安本史帆(みんなのてつがくCLAFA代表)

 

1 意見・感想

2 質問・問い

3 その他

 

【A】

1 哲学相談だけでなく、カウンセリング自体が技量や経験、覚悟のいるものと感じた。

2 哲学カフェでは哲学的知識は不要といわれている。でも、哲学プラクティスはその総合的な場とすると、哲学相談(カウンセリング)を議論する場として適切というよりは、そこしかないという位置づけか。

【B】

1 哲学対話・哲学相談という活動の社会への浸透、社会のニーズへの答え方について、イメージが持てる面白い会でした。職業としての成立を考えられそうで、面白いと感じました。

2 哲学する・対話する で喰えるのか?

【C】

1 哲学カフェに関わっている人たちの考えていることがよく分かりました。

2 哲学カフェのファシリテートについて、どんな方法があるのか知りたいと思いました。

【D】

1 哲学相談について、実体験が聞けてとても良かったです。哲学対話が限界にきているのではないか?という問いがチラッと聞こえたのですが、それについてももっと対話したかったです。ぜひ別の機会にそれについてもお願いします。

【E】

1 個人的には危険性を感じても、実践していってほしいと思いました。

2 夜回り先生が『たすけたい人に対して、「自分の本を読め」というが、誰もよんでくれなくて、つかれた』⇒HPを閉じるということがあったが、……人をたすけるって門戸をせまくしたほうが効率はよいのではないか?

【F】

1 初参加でした。このように哲学対話・相談というものが一定のコミュニティとして取り組まれていることを知り、刺激を受けました。ありがとうございます。

2 相談業としての覚悟と技術と思想ということばが印象にのこっています。

【G】

1 とてもよかった

2 色々あるがよくわからない。

3 哲学者はそもそもやばい人が多いので、あまり相談にはいかない方がいいと思う。(本を読むだけなら大丈夫)

【H】

1 「哲学」相談に限らず、相談は危険……。「哲学相談」はとても危険だと思いました。

2 哲学相談にルールはあるのか?

【I】

1 とても興味深かったです。ですが、対話の後半で、哲学プラクティス連絡会の現状の話が続いた時、それが本当に今日のテーマを深めることにつながるのか疑問に思いました。(少し話がそれすぎた気がします。)

 問題は、哲学プラクティス連絡会の場が、広い/狭い や 開かれている/開かれていない よりも、誰とどんな場でどのように哲学相談について議論するかにあるのでは、と思いました。

2 哲学相談については、やはり心理相談を専門とする方と議論の場をもつことが必要と思いました。

【J】

1 哲学相談について、少し悟りを得た気がします。

2 哲学相談と対話相談は違うのか

3 今後も哲学相談について考えたいです。

【K】

1 哲学相談を考える上では、哲学対話以上に心理学や他の領域について考える必要があると思いました。もしかしたら、哲学プラクティショナーより、そちら側の人たちの方が関心あるのかも。

2 哲学対話の危険性について、哲学相談より哲学対話の方が危険度は低いという前提があったように思うが、本当にそうか? ある部分では哲学対話の方が危険はあるかも?と思ったりしました。

【L】

1 本日の会は哲学プラクティス学会について知らないと話題についていけない内容だったように感じた。哲学相談の可能性としては、「対等性」があるのかと感じた。

【M】

1 具体的で真摯な話が多かったので、心にひびいた。

  質問に対して、答えてないで、タイムオーバーに近づくのが気になった。

2 この問題(類似のもの含む)は時々やってもいいと思う。

【N】

1 安本さんの不安が理解できて良かった。

2 ひみつ

【本間正己】

1 哲学相談が日本で確立・定着するまでには、まだまだ長い道のりだと思うが、従来の心理相談・カウンセリングでは満足できない、対応しきれない人たちへの適応の可能性はあると思う。対象者は少数かもしれないが、そのような人たちのために検討・研究をしていく意義はある。その際、危険性、傷つきやすさ、倫理の問題は避けて通れない。このことを今日強く感じた。

2 安本さんの「哲学ママ」などの精力的な活動の源流は何なのか、エネルギーはどこから来るのか、などについてももう少し聞きたかった。

【安本史帆】

1 私の問いにみなさんがお付き合いいただいて感謝です。ありがとうございました。

2 哲学相談における開かれた場とはどんな場かは今後も考えていきたい。

3 このような場にお招きいただきありがとうございました。

【第31回】テーマ 「哲学カフェ・哲学対話の運営上の悩み・課題」

 

 令和元年8月16日(金)午後7時から9時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、5名の参加で実施した。

 テーマは「哲学カフェ・哲学対話の運営上の悩み・課題」であり、進行役は本間正己(人生カフェ)が行った。

 各参加者から悩み・課題を一つだけ出してもらい、一つについて約20分自由に話し合った。今回の参加者は、全員が哲学カフェ・哲学対話の運営経験者であった。

 以下は出された悩み・課題とその後の話し合いの中で印象に残ったものだけを記載した。

 

1 哲学カフェでの対話が世間話のようになってしまうが、どういう進行をすればよい対話ができるか?

*世間話と対話は何が違うのか?

*哲学カフェの中で、世間話的なことが入ることは話の幅が広がるといういい面もある。ただし、世間話的な話だけに終始したくないところはある。

*進行役が適宜、当日のテーマ(問い)に立ち戻ることを示唆することがあってもいい。

*進行役が話しすぎていないか自己チェックする。進行役は、聞くことが大切であり、参加者に問う(質問する)ことに心掛けるのがいい。

 

2 嫌いな人、信頼できない人、考えが違う人と協働するためには何が必要?どうしたらいい?(分裂、断絶、離脱)

*目的、目標が一致していれば、理屈的には誰とでも協働できるはずである。

*もちろん、目的、目標を一致させるために、十分な話し合いや時には取り決めなどは必要である。

*理屈ではそうだが、実際には協働が難しい場合があるが、それは感情のような要因が強く働いているせいか?

*感情等の調整が必要ということであれば、それは心理学的な分野の話になるかもしれない。

 

3『子ども哲学』と『大人哲学』をなぜ分けるのか?

*現状で分かれている主な理由は、それぞれの哲学対話の安全性の確保からである。特に、子どもの哲学対話において、安全に、かつ自由に対話できるようにするためには、分けた方が無難である。(哲学対話のことをほとんど知らない大人は子どもに危険な発言をする心配がある。)

*逆に言えば、しっかりとプログラムがデザインされており、参加する大人が子どもに対して、適切な態度や配慮ができる会なら、子どもと大人が一緒に哲学対話を行うことは可能であると考える。

*哲学対話の方法・やり方については、子どもも大人もそれほど違いはない。安全性が確保されれば、多様な世代間で哲学対話を行う意義はある。安全性を確保したデザイン化をきちんと行い、チャレンジしてほしい分野である。

 

4 威圧的なことに無自覚な参加者に、どう気づかせ、そうならないようにさせられるか?

*威圧的なことに無自覚な人というのは哲学対話の場にはふさわしくない。しかし、これらの人に注意をし、変えてもらうのはかなり難しい。

*哲学対話の趣旨・ルールから、他の参加者への配慮の必要性から、時間の制約から、などで説明・説得することもあるが、相手が聞く耳を持たないこともある。短時間の哲学対話の場では、その人を変えさせることは困難である。

*威圧的なことに無自覚な人が集まりやすい哲学カフェ、そのような人が集まりやすいファシリテーターというのはあるのだろうか?

 

5 中高年の哲学対話はなぜ広まらないのか?

*中高年は、子どもの頃、若い頃に哲学対話を経験していないから。

*中高年の中には哲学対話にふさわしくない性質・傾向を持っている人がいるから。(例:説教おじさん、おしゃべりおばさん)

*中高年の哲学対話の中身に魅力を感じないから。(特に、女性を引き付けるものが少ない?)

*哲学対話はスマホのようなもの。中高年が若い頃にはなかった。便利な機能がある手段である。使うことができる人は使わないのはもったいない。

(記録:本間正己)

 

【第30回】テーマ「ワークショップ 対話ワールドをマッピングしてみる!」

2019年6月16日。東京早稲田の榎町地域センターにて開催。参加者6名(進行役・岡村正敏を除く)。共催「対話の杜」(栃木県足利市の哲学カフェ)。

以下報告です。

●参加者の声

・哲学カフェ、対話の場のマッピングは必要か?自分が実施する会の活動に邁進することが大事。必要ないのでは?

・マッピングは単純に知的に愉しい。

・マッピングは自分が主催する会の位置の再確認となる。それは今後の展開を考えるうえで参考にすることができる。

・マッピングはたとえそれが完璧なものとはならないにせよ、「対話の活動」に関わろうとする者にとっての義務だと考える。通時・共時的関係の中で自分の立ち位置を自覚しようとする、若しくは定めようとする姿勢は、義務と考える。フリーライダーは否定しないが、望ましくはない。

・マッピング自体、フォーマットが多々考えられる。フォーマットの多様性を探る事は「対話の活動」の全体を多様な角度から多層的にとらえようとする試みであり、「対話の活動」の分析にもなっている。

●マップ作成ワークショップ

マップ作成WSでは4象限フォーマットを使用した。

                   

座標を、左「非有用性」と右側「有用性」。上下が上「論理」と下「感情」として、既存の会を位置づけていった。その後マップを見ながら今後の動向を話し合った。

 

その結果、現在は「有用性」寄りの傾向になっているが、今後は「非有用性」且つ「感情志向」へと変化していくのではないか?との結論に至った。

各象限についてのまとめを以下に記す(ただし実在の会や団体名を使っているので作成したマップは公開しません。各象限ごとのまとめのみを記します)。     

  • 第一象限。会の数は11。有用性且つ論理志向。メタ対話の視点や会の連合体等、哲学対話に属しつつその域を内側から敷衍、俯瞰していこうという傾向。啓蒙志向ともいえる。

  • 第二象限。会の数は9。非有用性且つ論理志向。会の数こそ少ないが古参の会が多く安定した人気を誇っている。オーソドックスな哲学対話傾向の会が多い。

  • 第三象限。会の数は10。非有用性且つ感情志向。知る人ぞ知るというマニアックな感がややあるが、今後「楽しい趣味としての対話」として対話の動向はこちらに移ってくると思われる。しかし「個人における趣味概念の刷新」と「刷新された趣味概念の社会性」を意識する限りで、この動向は最先端の実践にもなりうるのではないか?

  • 第四象限。会の数は19と最多。有用性且つ感情志向。哲学対話の「哲学」性よりも「対話」性を意識した社会実験の傾向が強く、職能技法としての「対話」がそれに準じている。

(記録:2019年6月18日 岡村正敏)

 

 (以下は、サブ進行役であった本間の補足の記録である。)

 上記の記録にある参加者全員の共同作業によるマッピングの前に、各自が個人的に考えていたマッピングが披露されたので、いくつかを簡単に記述しておく。

◎縦軸として、「アカデミック⇔在野」という尺度

◎誰のための哲学対話か(Whom)という観点からの分類(年代別、性別、職業別、障害別、病気別、差別など)

◎哲学対話に参加する人たちの動機別

◎哲学対話の実際の目的別、テーマ別、方法別

◎哲学対話のテーマ志向、効用(私、他人、社会、自然)

【第29回】テーマ「哲学対話と生涯学習」

 

 平成31年4月21日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、11名(男性10名・女性1名)の参加で実施した。(進行役:本間正己)

 参加者の自己紹介の後、本間が以下のレジュメに沿ってキックオフトークを行い、質疑応答をした。

0 哲学対話とは

Ⅰ 生涯学習とは

  • 広義の生涯学習と狭義の生涯学習

② こどもの学習とおとなの学習

Ⅱ 生涯学習の観点から哲学対話を見る

1 学習の方法

  • 共同学習  (哲学対話)

  • 系統学習  (哲学史・哲学者等を学ぶ)

2 学習の支援者

  ~教育者とは異なる人たち

3 学習の制度・行政

  • モノ・カネ・ヒト

  • 国・自治体との関係

 4 哲学対話の教育的価値

  • 考える力を育てる

  • コミュニケーションする力を育てる

  • ケアする力を育てる

Ⅲ 「哲学対話と生涯学習」を考えるメリット・デメリット

 

 次に、参加者から問いを出してもらった。

〇ひとは何のために学ぶのか?

〇生涯学習の目的は? 哲学対話はその目的にかなうものなのか?

〇対話と哲学対話のちがい  生涯学習における対話と哲学対話のちがい

〇生涯学習としての哲学対話と普通(今まで)の哲学対話の違いは何か?(方法及び教育的価値)

〇成人学習からどの様な方法を哲学対話は取り入れられるか?

〇考えると学ぶ 同じ? 違う?

〇目的意識的な教育・学習と懐疑的な哲学対話は両立するのか?

〇哲学対話の効用とは?

〇哲学対話は社会に対して、どんな経済的メリット(価値)を生み出すことが出来るのか?

〇学んだ事(哲学対話で得た事)の実践方法について(どのような事ができるか?)

〇哲学対話を通して、大人はどのくらい変われるか?

〇哲学対話は主体性を育てるのに役立つのか?

〇生涯学習の主体は誰か?

〇大人でも「学び直し」といった現象が起きている中で、世代によって学びの形態は似かよってくるのでは?

〇哲学カフェとはそんなに高尚なものなのか?

〇「考える」と「感じる」は同じ? 違う?

 

 今回は、「対話と哲学対話のちがい  生涯学習における対話と哲学対話のちがい」について、フリーな対話をしていくことに決めた。

 

●哲学対話の生涯学習的価値

 子どもの哲学対話の教育的価値については、リップマンらが言っている3Cにおいて、近い概念を見いだせる。

 それでは、狭義の生涯学習(大人の生涯学習)においては、何と言えるだろうか? それは哲学対話の生涯学習的価値であり、哲学対話の効用に繋がるものでもある。

 とりあえず、哲学対話を通して、次のような3つを学んでいるという言い方はできるかもしれない。

  • 自分自身を探求する

  • 人生の本質を探究する

  • 社会の本質を探究する

 これらは子どもの場合のように、何かしらの能力、資質を育てる、といった見方とは異なるものである。(大人、特に高齢者はそれほど能力、資質は伸びないから!?)

子どもの哲学対話の場合も、「探求する」ということに価値を置いているが、大人の場合は「能力、資質を育てる」ことが相対的に背景に退くこともあって、「探求する」ことそのものに大きな意義を感じるようになる。これらは、自分をよくしたい、人生をよくしたい、社会をよくしたい、といった欲求が背景にあることも押さえておきたい。

●自由、自主性、自発性……

 哲学対話において、自由や自主性は命であり、目的でもあるとも言える。

 子どもの哲学対話においても、この自由は最大限に尊重されるものだが、如何せん、学校で行われる場合は、制約がかなりかかっていることは容易に想像できる。

 大人の場合も、社会という檻の中で生活しているのだから、子どもと同様だという見方もできるが、学校と比較すると、大人の街場の哲学対話は自由な感覚が強い。やはり大人の自由は子どもの自由とは異なる。大人の自由は、歴史的に見れば人類が獲得してきた自由との関連が強い。

これらの自由の価値を生涯学習の中でも積極的に位置づけていきたい。

●共同学習と系統学習

 生涯学習における学習方法の2分類からすると、哲学対話は共同学習に位置づけられる。哲学史や哲学者についての学習は系統学習に該当する。

 このようにざっくりと分類しただけでも、哲学対話の効用と限界が見えてくる。哲学を「学ぶ」という観点からすれば、共同学習と系統学習の両方が効果的に組み合わされるほうが理想である。(高校の倫理社会の先生はこの問題を常に考え、頭を悩ませているだろう。)

 もちろん、哲学「する」という観点からすれば、哲学対話だけでも自律した価値を有しているとは思われるが……。

 

 

 最後に、参加者に感想等を書いてもらった。

〇対話と哲学対話の違いはある程度理解できたが、子どもと大人の哲学対話の違いはよく分からなかった。

〇子どもと(哲学)対話をしたくなったかも?

〇哲学対話の効用も話したかった。

〇おとなの哲学対話~「学ぶ」で人が集まるか?

〇すてることの効用

〇(生涯学習としての)哲学対話の効用は人それぞれ。だから、自主的(自由)が重要(良いこと)。

〇なにかを経験してもらう機会を(もうけて)勧めることは、〈反・非〉主体的なことか?

〇自主性の根源、フレーム

 学習は今まで学校のみ。それ以外の、以降の学習を強調して「生涯」とついた。

〇教育と学習は違う。〔教育は社会のため 学習は自分(個人)のため〕

〇何も求めない人は哲学対話に来ないのでは。

〇懐疑的哲学対話は、目的として教育・学習に組み込まれるものとなったら、哲学対話にならないのでは。

(記録:本間正己)

【第28回】思考と対話の敵「マジックワード」を考える

 哲学探偵さんの進行により、「思考と対話の敵「マジックワード」を考える​」というテーマで実施した。平成31年3月17日(日)午後1時30分~4時30分、カフェ・ミヤマ 高田馬場駅前店 [1号室](会議室)で行った。参加者は、男性8名、女性3名、計11名であった。

 案内文は以下のようなものである。

◎内 容  
「気持ちに寄り添う」「重く受け止める」「◯◯力」「対話が必要」「当事者意識を持たなければならない」「いかがなものか」...
巷にあふれるこれらの言葉は、何か言っているようで何も言っていない『マジックワード』。人を思考停止させるだけでなく、対話を困難にする強力な効果を持っています。
このマジックワードについて考えるとともに、マジックワードに対処する具体的な方法にチャレンジしていただきます。
​■参考図書
「その言葉だと何も言っていないのと同じです!」
著者 吉岡友治
価格 ¥1,512(税込)
※マジックワードについて事前に調べたい人向けの情報です。当日読むわけではありません。
■時間割
[15分]自己紹介・会の紹介(各人1分のみ)
※あれば、活動を紹介するチラシ等を12部ご用意ください。
[15分]哲学探偵と探偵七つ道具について
[30分]マジックワードと探偵七つ道具
[10分]休憩
[60分]哲学対話 ※テーマは当日発表
[20分]振り返り・感想

 

(終了後、哲学探偵さんからコメントをいただきましたので、以下に掲載します。)

 

当日ご参加いただきました皆様、貴重なお時間をいただきありがとうございました。本間さんからレポートを依頼されましたので、以下に私なりのまとめ述べたいと思います。

■今回の狙い
今回の企画で目指したのは「いかに指摘しやすくするか」でした。他者の意見に対してダメ出しはしにくいですし、対話会では明確に禁止している場合もあります。ですが、よくわからないものをそのままにして流してしまうと、対話そのものがよくわからないものになりかねません。それを防ぐには、明確に表現してもらうように促すうまい方法が必要です。

そのステップとして、指摘しないといけないルールを経験してもらい、指摘合戦の不毛さと別の方法の必要性を感じてもらえたらいいなと思っていました。指摘合戦はやっていればすぐに不毛だとわかるはず…というちょっと安易な期待がありました(笑)。

■マジックワードってなんなのか
当日の最後に「察しろ」ということと説明をしましたが、実はもう少し身近で深刻な問題もあります。

それは、
「いいこと言ってやろう」、
あるいは
「頭良く見せよう」
です。

これは仮にそうだったとしても他者が指摘しにくいものですし、自覚もしにくいものだろうと思います。でも、こういう意図があるとマジックワードはとても出やすくなります。明確な説明なしにもっともらしいことを言えてしまうわけですから。

さらに言い換えてみると、自分の意見を他者に掘り下げさせるということです。あるいは、他の参加者が深く考えようとしているところに、それっぽいキーワードで水を差しているとも言えます。

もちろん、全員が楽しめていれば気にしなくてもいいという面もありますが、深く考える前にマジックワードを出して悦に入っている人のために、他の参加者は知的な時間を楽しむ機会を逸してしまっているとしたら、私はなんとかしたいなと思います。

■流していいものもあれば、流さない方がいいものもある
また、今回の企画で「指摘の難しさ」も実感しました。マジックワードの指摘をするゲームとして企画しましたが、マジックワードとそうでないものの違いが個々人で違っているため、「マジックワードでなくてもとにかく指摘する流れ」になってしまったように思います。険悪になったわけではないので止めませんでしたが、もし他の場であれば言葉狩りに近いものになるのかも知れません。

対話の中でも意見が出ていましたが、マジックワードのすべてが絶対悪というわけではないので、流していいものは適当に流していいでしょう。ただ、発言の背景に「いいこと言ってやろう」とか「頭良くみせよう」という意図が見えた時には、指摘とはまた違う方法で明確な説明を促すのがうまい対処方法ではないかなと思います。

私の目論見では、対話の後半くらいに「指摘じゃなくてもいいんじゃない?」という意見が出て、「マジックワードに出会ったら指摘するのではなくこうしたらもっといいのでは?」...という展開になるのが理想的展開だったのですが、1時間程度では全然足りなかったようです(笑)。

中盤くらいで「ゲームのルールに惑わされず指摘以外の方法を考えること」と明示した方がよかったのかも知れません。

■総括
とはいえ、マジックワードを題材に語り合うことができたことはとてもよかったと感じています。対話会に限ったことではありませんので、生活の現場で出会うマジックワードにどう向き合い、どう対処していくのか、今後も哲学探偵の主要なテーマとして企画していきたいと思っています。

機会をいただきました東京メタ哲学カフェ、並びに、ご参加いただきました皆様には、重ねて御礼申し上げます。

【第27回】本『考えるとはどういうことか』

 

 平成31年2月17日(日)午後1時30分から4時30分まで、高田馬場のカフェ・ミヤマにて、10名(男性9名・女性1名)の参加で実施した。

 『考えるとはどういうことか』(梶谷真司、幻冬舎新書)の読書会の形式であり、進行役は本間正己(人生カフェ)が担った。

 最初に、自己紹介・団体紹介、そして本書を読んでのざっくりとした感想を述べてもらった。

 次に、本書を読んでの問い出しである。

〇哲学対話において

  考えるとは?

  自由とは・

  哲学的深まりとは?

〇考えるとはどういうことか?

〇哲学対話の目的っていったい何?(一人一人が考えること?)

〇なぜ哲学対話をするのか?

〇役に立つから哲学対話をするのか?

〇ポジティヴな意味での責任とは?

〇「かたる」ことの意味(意義)とは?

〇問いと〈現実〉は遠いか?

〇対話の中で、「質問すること」「問いを立てること」は、それぞれどういう〔役割〕があるのか?

〇知識?経験?は〔哲学〕対話(考えること?)にどう寄与するのか?あるいはしない??

 

この中から、今回のメインテーマは「哲学対話の目的っていったい何?」とした。

以下の記録は記録者が印象に残ったところだけである。

 

●「知識」は哲学対話において、どのような意味を持っているか?

 哲学対話においては一般的には知識(例えば、哲学史や哲学者の思想などに関する知識)は必要がないと言われている。果たしてそうだろうか?

 対話において、問いを立てるためには一定の知識が必要である。それは哲学の知識ということに限定するものではなく、その本人に蓄積されている知の情報の蓄積のことである。これがなくては問いも立てられない。この問いを立てていく上での知識は哲学対話においても否定されるものではない。

 問題視されるのは、問いに対する答えにおいて、自分の持っている知識だけで説明しようとすることである。特に、一般の人には分かりにくい哲学の専門的知識(カントはこう言ったといった類のもの)による説明は哲学対話では敬遠される。今回の課題本でも、梶谷さんは自らの「経験」に基づいた話をすることを推奨している。

 

●『考えるとはどういうことか』においては、自由と責任の問題が主要なテーマになっている。自由についての梶谷さんの主張は、そのユニークさも含めて分かりやすいし、共感もするが、責任の方はいまひとつ捉えにくい。「ポジティヴな意味での責任」(98P)とはどういう意味か?

 梶谷さんの言うところでは、責任を取るとは、経済的負債を負うとか、懲罰を受けるとかいうものではなさそうである。「自由と共に」手に入れるというところにこの責任のポイントがある。だから、他人からの何かしらの制裁というものではなく、自分自身が自ら感じるものというところに意義がありそうである。

 この本が哲学対話に関する本ということからすると、哲学対話の企画者・ファシリテーターと参加者の責任とは何だろう?

 企画者・ファシリテーターは対話の場を設定し、対話のルールを守ってもらうなどの役割を持っているので、それなりの責任(感)が生じるのは自然なことのように思うが、いかがだろうか?

 それに対して、参加者は哲学対話において、自由な発言の場が与えられる。そのような参加者の責任や責任意識といったものはどのように考えていったらいいだろうか?(このことは今まであまり論じられてこなかったように思われる。例えば、参加者が対話のルールを守るというのは責任の現れか?)

 

●哲学対話の目的とは何か?

 現在のところ、共通了解できる統一的な定義を提示するのは困難である。それぞれの会で異なっているということもあるし、一つの会も自らのアイデンティティを求めて、その目的を絶えず更新しているといった現状もある。

 哲学対話の効用などは本書で記述されているようにいくつか列挙することができる。それらの効用を自らの会の目的に沿うように利用していくというのが実際のところである。ということは、哲学対話はそれそのものが目的というより、何かしらの目的の手段としても位置付けられるということである。

 

●『考えるとはどういうことか』というタイトルの本ではあるが、「考える」ということをズバリと端的に本質定義している個所は見出せない。そこで、いろいろ想像してみる。

 第3章の見出しからすると、「考える」とは、「問う」と「語る」「聞く」との間にあるものとだけは言えそうである。(それだけしか言えないのかもしれない。)

 考えるとは、問いに対しての答えを見つけようとする過程のことを指すとも言える。答えそのものではなくて、あくまで答えを求めようとするベクトルのことである。

 考えるとは、そこに論理的とか、筋道立てるという要素が入るという見方もある。自他ともに理解するとか、伝わる(語る、聞く)ということが求められるからである。

 他にもいくつか想定できる。すなわち、『考えるとはどういうことか』は読者に投げかけられた問いとして、残り続ける。

 

 最後に、参加者に、本書を踏み台にした上での、自らの実践の方向性を書いてもらった。

〇他人を知り、理解するのに、対話の場は必要

〇場をつくることだけ

〇①正しさは正しいとは限らない ②リスペクト ③ゴール設定と収斂

〇①シンプルに ②くり返す ③参加者が自由になれるように(目的・方法も柔軟に)

〇否定を問いにする くつがえしつづける?

〇やってみせる あわよくば巻き込む

〇メソッドを作る

〇体で感じる哲学とは?

〇責任とは?⇔自由とは?

 哲学対話は目的?手段?

〇この本を読んでの対話の会への参加、本日をもって終了とします。お腹いっぱい!!

(記録:本間正己)

第26回】テーマ:「いま、東京の『街場の哲学カフェ』はどうなっているか?」

 平成30年12月16日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、12名(男性9名・女性3名)の参加で実施した。

 テーマは「いま、東京の『街場の哲学カフェ』はどうなっているか?」であり、進行役は本間正己(人生カフェ)が行った。

 最初に、「哲学カフェ・哲学対話ガイド」や「東京の哲学カフェを訪ねて」のデータを参考にして、本間が簡単に報告した。

 現在、東京都で定期的に活動している街場の哲学カフェは30くらい、不定期も合わせれば50はあるだろう。東京都以外の関東には20くらいはある。(横浜市や千葉県に多い) 全国では200くらいあるとも言われている。不定期も含めればもっとたくさんあって、400という数字も出た。都道府県レベルでは東京都が最も多いことは間違いないだろう。

 東京は人口が多く、地方から多様な人たちが流入している。交通の便もいい。そのために、いろいろな種類の哲学カフェがあり、バラエティに富んでいる。哲学カフェが作りやすい地域と言える。人生カフェ(中高年向け)や東京メタ哲学カフェ(哲学カフェの運営者のための哲学カフェ)などが存在するのも東京だからかもしれない。

 今後、東京メタ哲学カフェでは毎年12月頃に、その年の東京の哲学カフェに関するトピックなどを情報交換し、1年間の特徴を総括するとともに、翌年の傾向などを話し合っていきたい。一方で、東京の哲学カフェの実態調査やPR・情報誌の発行などを期待したい。

 次に、各参加者が推薦したい・紹介したい哲学カフェ等を出し合い、情報交換をした。取り上げられた哲学カフェ等の名称だけを列挙する。

*千葉中央哲学カフェ

*勉強カフェ対話部(すがや対話工房)

*人生カフェ(読書会)

*カフェフィロ(寺田俊郎さん)

*ソクラテス・サンバ・カフェ(さっちゃんさん)

*学習院大学(大学の先生)

*哲学カフェinたちかわ

*朝モヤ(西国分寺クルミドコーヒー)

*朝さろん

*めぐろ哲学カフェ

*Rationality and friendly AI Tokyo meet up

*Socrates Café Tokyo meet up

*哲学探偵コーナー

*オープンダイアローグと中動態の世界

*こじらせ東大生の恋愛相談会

*日本語教育学会関東支部

 

 その後、フリーな対話に移っていった。情報交換やフリーな対話において出たいくつかの話を簡単に記述する。

 グラフィックは単なる記録と、ファシリテーションの一環として行われるものでは意味合いが異なっている。後者の場合、グラフィックは必ずしも常に有効とは限らない。対話の流れが見えやすいという面ではいいかもしれないが、大事なものを取り残してしまう危険性もある。また、一定の方向に対話が持っていかれてしまう心配もある。グラフィックは初心者向き? 多人数向き? 多様性がたいへん高い場合向き?

 哲学カフェは何の目的のために行っているのか? それは各哲学カフェによって異なるだろう。多様な目的があって、そこに共通性は見えにくい。そうすると哲学カフェは手段や方法ということになるのか。そうかもしれない?

 一方で、それほど目的が明確でなくてもいいのではないか。会社などのガッツリとした利益集団ではない。PDCAサイクルを強く意識する必要もない。哲学カフェは〈目標⇔評価〉が当たり前になった社会に対するアンチテーゼなものかもしれない。

 ところで、本日のテーマからすると、「東京と地方との関係」「東京から見た地方」「地方から見た東京」などについてももっと話したかったが、途中で時間切れになった。

(記録:本間正己)

第25回】テーマ:「いま、『街場の哲学カフェ』どう捉えるか?」

1、はじめに

今回プロデューサーの本間さんから課せられたテーマは「いま、「街場の哲学カフェ」をどう捉えるか?」というもの。このお題について考察する際にポイントになると思われる幾つかの点について下記のように述べた。

 

2、問いの背景

「大人の哲学カフェ」とは何だろうか――。それは、哲学カウンセリングや、P4C、クリティカル・シンキング、あるいは哲学教育のように自明的なものだろうか。発表者は、「哲学カフェ」の自明性と、「大人の哲学カフェ」の自明性とのあいだには、まだまだひらきがあると感じている。

広く哲学プラクティスと称される哲学的な実践(≒“する哲学”)の中においても、セグメント化は急速に進んでいる。それぞれの実践領域には、背景となる方法論、理論的枠組み、対象が(緩やかに、しかし厳に)設定され、その発展・普及・洗練化を普及する舞台が年々整っていっているように見える。

子どもが主対象ではなく、ビジネスコンサルティングでもコーチングでもなく、地域等の公共セクターの担い手として実務的であるわけでもなく、もちろん福祉やケアやカウンセリングに携わっているわけでもない、どこまでも「市井の哲学カフェ屋さん」としか言いようのない「大人の哲学カフェ」の実践は、たとえば2014年の哲学プラクティス連絡会の発足以後、“各セグメントにおける自己定義や実践の余白”、“それ以外の部分”として茫洋と把握されて来たように思える。

一方で――たいへんに興味深い点だが――このように漠然とした「大人の哲学カフェ」≒「街場の哲学カフェの取り組み」は、哲学プラクティスの中では原風景の一つとして素朴に、そして深く、承認を得ているようにも見える。

こうした現況を踏まえて平成以後を見据えた時、「大人の哲学カフェ」という切り口で問われるものがあるとすれば、それはなんだろうか。

・理論的な枠組み?(大人に限定する理論があり得るのか? どこから密輸入してくるのか?)

・方法論の先鋭化?(なんのために?)

・市民による街場の哲学カフェ実践の権威付け?(それは必要なものなのか?)

・プレゼンスの向上?(なんのために?)

・実践領域(フィールド)の厳格な再定義?(なんのために?)

・自明性の獲得?(自明であるとはどういうことか?)

 

こうした疑問を腑分けしていくために適切な問いが用意されなければならないだろう。その一つとして、市民が営む街場での哲学カフェ実践において問われるものは、どのようなものであるべきかという具体的な場での実践を背景とした視座の上に設定されるものだと考える。

 とはいえ「大人の哲学カフェ」を拙速に解体・再構成したいわけではなく、それができるわけでもなく、結局はどこまでも「哲学カフェ」の周りを右往左往するばかりであろうと考えるし、今回の機会も同様であった。

 

3、問いへの当座の回答

今回課せられたテーマを、三つの切り口に分解し、議論の叩き台として当座の回答を設けた。

3-1)【いま】

2000年代以降の、「哲学の民主化」の潮流のなかにある。この流れの中で、市民レベルでの実践も含む「哲学プラクティス連絡会」(2014~)とアカデミズムの「日本哲学プラクティス学会」(2018~)とができた。どちらが幹でどちらが果実か。

3-2)【街場の哲学カフェ】

哲学の民主化における一つの最前線。市民の家内制手工業であり、覚束なさ、心許なさがある。それを自由の不自由とし、理論や権威付けを求める「自由からの逃走」の気分がただよいがち。

他方で、適切に「外部」とつながらないと、「自家中毒」(自分の体内でつくられた毒物のために起こる中毒)を起こしがちかもしれない。

3-3)【どう捉えるか】

『我々はコミュニケーションの不足に苦しんでいるのではない。むしろコミュニケーションの強制に苦しんでいるのだ。』――Gilles Deleuze

危機に陥ったひとたちが集まれる(自由な)コミュニケーションの空間を用意しておくことが必要であり、おとなの哲学カフェはそのような場所になり得るのではないか。

 

これら1~3の達成のために、バラバラだった「街場の哲学カフェ」がコレクティブな力(≒アソシエーション)を持てるようになると一層よいのではないか。そのためには、哲学プラクティスの“外部”、境界領域をきちんと考えることも不可欠と考える。

 (以上 記録:芹沢幸雄)

 後半は、「哲学カフェはどう見られているか? どう見られたいか?」(サブ的に、「哲学カフェの内部と外部とは?」)というテーマで話し合われた。進行・報告は本間が担った。

 このテーマに対する感覚や意見は当然その人の寄って立つところによって異なるわけだが、大きく二つに分かれた感がある。一つは、哲学カフェの活動を広く知ってもらいたい、そして哲学カフェの活動が増えていくことを強く望んでいる者たちである。もう一方は、哲学カフェの活動が拡大していくことをそれほど重視していない者たちである。

 その二つの違いよりも重要なのは、哲学カフェというものを統一的に概念化していくことを強く望む者とそれほど統一的な概念を求めない者との違いである。後者は、統一化の方向は哲学カフェの多様性を損ねてしまうことを心配している。

 しかし、概念化と多様性は矛盾しない。

 個々の哲学カフェは自らの活動について、常に自己再定義化を試みていかなくてはならない。自分のところの哲学カフェは何ぞや?という問いを常に問い続けなければならない。これが基底にあり、これを外部に発信(PR)し続けていれば、それがその哲学カフェの個性を作り出し、引いては哲学カフェの多様性は保たれていくだろう。

 その多様性を前提にして、哲学カフェの全体を捉える概念化は探求していくべき課題である。それは、この「業界」の意義を問うことになる。この作業を学会などの研究者集団に任せっぱなしにしていいのだろうか? 哲学カフェを実践している者たちの役割はないのだろうか?

 前半の芹沢さんの話を引き継いで、後半もキーワードになったのが、「コレクティブな力」である。この集合的な、組織的な力は、いま、哲学カフェの実践者たちに本当に必要なのか? コレクティブな力には当然、利点も欠点もある。当日意見も分かれた。今後の実践課題として受け止めていきたいテーマである。

 

最後に、参加者にフリップに一言ずつ書いてもらった。

◎活動を拡げるかどうか。

◎普及したい!

◎閉じコンは嫌だなぁ…

◎閉じた趣味でいいけど、普及、効用もOK。使い分け、混合しない。

◎まったく知らない人には(効用なのか)、ある種わかりやすく伝える努力はしたい。選択肢として選ぶのは相手だし。 まとまることで力が生まれる。

◎コレクティブな力、発揮したいです。モウソウ哲学カフェ……とか

◎閉じた世界で知を深めても良いが、均質化すると言葉が不要になり、言葉が死んでいくのでは。開く必要があるのでは?

◎まず……自分のコアの部分(原初? 観る、聴く、言葉、構造……)を「哲学カフェ」というキーワードできわだたせる……   むしろマイノリティ。

◎「哲学カフェ」って何ぞ??という呪縛。逃げ切れない。だから対峙する。異郷にすむ。

◎常連もいいのでは?

◎答えのないことを話す場

◎ラーメン メタファー 

(以上 記録:本間正己)

 

第24回】テーマ:「新しい哲学カフェをつくってみる」

平成30年10月21日(日)午後1時30分~5時開催、

参加者10名(内8名は哲学カフェ主催者)。場所 東京 高田馬場・新宿消費生活センター分館

タイムテーブル

13:00 準備と受付(この時点でくじ引きでグループ振り分けをしておく)

 グループ振り分け。席移動

13:30 挨拶等(5分)

13:35 自己紹介シート作成(カテゴリー→「行っている活動」「好きな哲学(者)又は芸術(家)について思う事」「私の主張」「その他」)。(5分)

13:40 自己紹介(1人6分×8=48分+2分 50分)

14:30 アイスブレイク(25分) 

      各グループで「哲学キーワードカード」を使って行う

      カードを引いて書かれているキーワードについて即興で見解を述べてみる。

1人3分程度。タイムキーパーはいないが各グループで時間配分はお任せする

(時間が余ったらもう一巡行う、または質疑応答に使う)。即興なので多少つじつまが合わなくても責めない。むしろそれを諒とし即興の自由さ、誤りの創造性を愉しむ。例えば「愛」「食べるという事」「アート」「カフェ」「他人の子を叱る」「フェティシズム」「哲学は本当に必要か?」等)

14:55 アイデアだしワーク。模造紙、付箋使用(35分)

      各グループ4名で哲学カフェを起案するためのアイデアだし。「コンセプト」

「テーマ」「プログラムデザイン」「方法」「環境デザイン」「広報・集客」他カ

テゴリー内容のアイデアを出していく。ワークの方法は自由。ホワイトボードを使っても可。模造紙・付箋紙を使いKJ法も可。皆で街に出て歩きながら相談でも可(街に出る場合は15:35までに戻る事)

15:30 休憩(10分)

15:40 纏めワーク。模造紙に企画を纏めプレゼン準備をする(20分)

16:00 発表(30分 各グループ10分発表+5分質疑×2)

16:30 全体リフレクション1人1分×8=8分(10分)

16:40 挨拶・片付け(10分)

17:00 退出

Buffer   10分

 

●主旨

現在都市部を中心に多くの哲学カフェが開催されているが、「哲学カフェ」に対する考えは主催者間で様々である。本流はあるようであるがやはり多様である。そして多様であってはいけない事もない。むしろ多様な「哲学カフェ」へのstanceが協働(≒協同)しあう中から「新しい哲学カフェ」の在り方が浮かび上がってくることがあってもよいと考える。固定的な多様性ではなく流動的で創造的な多様性へ向けて、「新しい哲学カフェ」の協働(≒協同)が何らかの契機となればと考える。そしてれは結局、「対話」に関する新しい気付きに裏付けられていなければならない、と考える(岡村)。

・目的 哲学カフェ主催者間で「対話」に関する新しい気付きを得る。または既知の気付きを深める

・準目的 アイデアを出し合い、斬新な哲学カフェを共同で企画することで今後の対話実践の伸展を期待する

以下今回のWSの概観を多分に主観的であるがアンケート答えを交えて記してみたい。

 

●所感

協働でのWSの進行に戸惑いがある様子が見られた。対話の目的を「合意形成」とする哲学カフェの主催者の見解はかつて幾度も耳にしたことがあったが、「合意形成」を行為の指針や「企画」に落とし込み、目の前の具体性に結実させるところまで「やってみる」事はなかったと思う。「戸惑い」はその「やってみる」事への戸惑いでもあったと思う(ファシリテーションの不手際を差し引いても)。そして戸惑いは「気づき」の宝庫でもあるだろう。実際のワークは「愉しめた」という声が多く、しかし企画に纏めるには「時間が足りなかった」「進行上の工夫の必要」という意見が強くあった。今回アイスブレイクの時間を1/3強と多く使ったが、そのことが「愉しめた」に貢献した半面「時間が足りなかった」要因にもなったように考えさせられた。

WSは2グループ(各グループ4名)に分かれ進められた。

1グループの企画案「キャラクターを深堀することで気付きを得るカフェ」を発表では、架空のキャラをその人格形成を協働で為し育て上げ、更に架空のシチュエーションにおいてみる。そしてさらにそこから対話をしてみるという試みであった。また類似の試みとして既存のキャラクター(例えば「のびた」)を架空の設定においてみて、それについて話し合うという事は「子ども哲学」に良く援用可能と思った。

2グループの企画案「<私>を脱ぐ哲学カフェ」は、参加費30000円!しかも12か月という突拍子もないものであったが、思考実験としての「新しい哲学カフェ」として興味あるものであった。もしかたら3万円をかけるだけの非日常体験を1年間続けたら人は大きく変わるのかもしれない。それだけの変容のポテンシャルを人は持っているのかもしれない。哲学カフェに足りない身体体験と身体体験の強度が、言語活動とどう関係するのか。全く分からないが、能ならば時間と費用と体験の強度を下げた実践はしてみたいと、私自身思った(「プラネタリウム」「焚火」あたりは穏当かもしれない)。

●具体的な成果

1グループでの企画案

・タイトル「キャラクターを深堀することで気付きを得るカフェ」

・企画主旨 参加者で何らかのキャラクターを作り、そのキャラクターについて話し合う。

具体的には、キャラ設定を協働で行い、そのキャラが「もしこんなシチュエーションにあったらどう行動するか?」について意見を交わす事で、他人の立場に立ったものの見方を涵養する。つまり対話を学ぶ。そのために他人のキャラクターを、

①情報として把握する(=キャラ設定の協働を行う)、

②状況の文脈化(「もしこんなシチュエーションにあったらどう行動するか?」について意見を交わす)を行う。

・対象 性別年齢不問 子供を交えてみる

・準備品 紙、ホワイトボード 他

・場所 飲食可能な都内のカフェなど

・定員 3~10名

・時間 90分

・日時 土日祝日の午後

・会費 500円

2グループでの企画案

・タイトル「<私>を脱ぐ哲学カフェ」

・主旨 <私>を私から解放し、新しい<私>の使い方を知る。通常では不可能な、あるいは可能であっても常識として在り得ないシチュエーションを設定し、体験し、参加者同士で体験と対話を繰り返す事で、長いスパン(=1年)での<私>の変容を受容する。参加費は非日常的な体験の場を準備するため1回30000円。非日常的体験の案として「星空を眺めながら」「焚火を囲みながら」「ロケットで宇宙で」「コンテンポラリーダンス・インプロを体験してから」「人を殺し(バーチャルに)そのあとに対話」

・対象 不定

・準備品 その都度

・定員 不定

・時間不定

・日時 不定

・期間 1ヶ月に1回の「体験」&「対話」を12回続ける

・費用 1回30000円!

  【進行役・記録:岡村正敏】

【第23回】テーマ:「発言しない人に発言を促すのは避けるべきか?」

 平成30年9月16日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、5名(男性4名・女性1名)の参加で実施した。テーマは「発言しない人に発言を促すのは避けるべきか?」であり、進行役は及川一郎(ヨコハマタイワ主催&哲学カフェ・哲学対話ガイド運営)が行った。

 以下は進行役の及川一郎の記録である。

東京メタ哲学カフェに進行役として参加してきました。
参加人数が4人ということでこじんまりしていたのでやりたい放題やらせていただき、個人的に収穫が大きかったので備忘録的にメモ。

まず、東京メタに参加するのが久しぶりだったので、最初に、東京メタの代表者である本間さんに、この東京メタは今どうなっているのか聞いてみました。本間さんの言葉ではなく、あくまで僕の理解なのですが、こんな感じ。

参加者その1:哲学カフェをやっている人・やりたい人
ニーズ:
1運営していて感じる具体的な悩みについて話したい
2哲学カフェや哲学対話そのものについて話したい

参加者その2:哲学カフェをやりたいとは思ってない人
ニーズ:
3哲学カフェ全般の情報を得たい
4テーマはともかく哲学対話をしたい(普通の哲学カフェと間違えて来ちゃった方)
5主催したくはないが、哲学カフェや哲学対話について(批判的に)話したい

で、実際、1と2については、回によって違いはあるけどバランスよく行われていて、3についても丁寧に対応されていると感じました。
まあ、4はともかく、問題は5だなあ。
実際主催している人(主催したい人)と、外から捉える人では、どうしても問題意識は違って、難しいところはあるけど、一方で、両者が出会う場も貴重な気もするなあ、と。

また、本題に入る前に興味深い話があったのでメモ。
参加者から「自分の言葉で話すってどういうこと?」という問いがあり、まず、その話をしました。
個人的に興味深かったのが、自己(不)一致という話。これは心理系の用語で、感情や思考といった自分の内面がうまく外的に表現できていない、という話のようですが、僕なりに気付いた問題意識を更に厳密に言うならば、「自分の感情や思考について、まだ自分自身が気付いてない」という問題。多分、無意識とか潜在意識とかといった話につながるのだろうけど、こういうことを対話の場面でどう取り扱ったらいいのかなあ。僕の理解だと、対話というのはあくまで言葉で行うものだから、せめて潜在意識が顕在化して内なる言葉として把握されないと土俵に乗りようがないと思うのだけど、本当にそれでいいのかなあ。(振る舞いや眼差しや態度といったものも、対話の相手に伝わった時点で、記号化された言語だと思うので・・・)

と紆余曲折しつつ1時間くらいしたところで本題に。
テーマは「発言しない人に発言を促すのは避けるべきか?」です。
この問題は、オスカル・ブルニフィエという人の話として哲学プラクティス学会でも取り上げられたそうなので、学会に出席した方に聞いたところ、彼の意見は、「ともに対話する場なのだから発言を促していい。」という方向だったとのこと。僕もほぼ同意見なので、そっちの方向に話を持っていきました。
多分、その方向性は基本的に正しいと思う。
だって哲学対話は対話する場なのだから、発言したくない問題も、
進行役「Aさん、発言はありますか。」
Aさん「○○だから発言したくないです。」
進行役「どうして○○なんですか。」
Aさん「そこは△△なので説明したくないです。」
進行役「わかりました。」
というふうに対話によって解決すればいいと思うのです。
発言を促すことについて「発言しにくいと思っているときに進行役に促してもらえると助かる。」というプラスの効用についての意見もあったし。
発言したくない理由を発言すること自体がかなりのストレスになるとか、発言を促してばかりいたら対話のテンポが崩れるとか、現実的なテクニック面の問題は残るけど、基本的には発言を促すのはOKというのは揺るがないように思います。

だけど、だけどですよ。もやっとしたものが残るのです。
対話の場だからって、本当に全てを言葉で解決しちゃっていいのかな、と。
少なくとも、そこには少し前に話が出た「潜在意識」のような問題が残るのではないか。
そういった言葉で摘み取れない何かを無視し、哲学対話の場から除外してしまったら、要は、哲学の営みから、言葉以外のものを除外してしまうことになる。
それって、哲学としてすごくつまらない。だって、その哲学は「すべては言葉で表現できる。」ということが大前提になっちゃう訳ですから。前提がある哲学なんて哲学じゃない、とも思うのです。

言葉にできない何かとして僕が最有力候補だと思ったのは、話のなかで出た言葉を使うなら、「思考のテンポ」です。人によって言葉が浮かび上がるのにかかる時間は違うし、その結果として、その言葉に乗せる重みも違う。そんな違いを進行役は大切にすべきなのかもしれない。

ある参加者の方が言っていたけど、「哲学カフェのルールというのは事前にしっかり決めるべきものじゃなく、その場で確認しつつ判断するべきでは。」というのが、ある意味正解なのかも。
哲学カフェは生身の人間同士の営みだから楽しい。だから、その場の人間同士が生身で決めようぜ。という感じ。

【第22回】テーマ:哲学カフェの運営上の課題・悩み」

 平成30年8月19日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、9名(男性8名・女性1名)の参加で実施した。

 テーマは「哲学カフェの運営上の課題・悩み」であり、進行役は本間正己(人生カフェ)が行った。

 各参加者から課題・悩みを一つだけ出してもらい、一つについて約15分自由に話し合った。今回の参加者は、哲学カフェ運営者が5名、運営予定者ないし一般参加者が4名という内訳だったので、運営者の課題・悩みを先に取り上げた。

 参加者から課題・悩みをフリップに書いてもらったのは以下のとおりである。

●対話をしたい人はどれくらいいるだろうか?

●参加者の感情~気づかぬうちに傷つけて取り返しがつかなくなったことがある~

●参加者の集め方  インターネット、SNSがまだ。

 方向性がまだ見えない。

●遅刻者のフォロー  半分過ぎて来場する人は話が解らなくて申し訳ない気持ち

●スタッフ内の対立~会の目的・性格など、基本的コンセプトをめぐって~

(会話~対話~哲学対話)

●「哲学カフェ」の地縁力はいかばかりか?

 住民の社会参加に対するインパクトは?

 オープン性は? 関係性構築力は? 学びや気づき?

●哲学カフェ運営にあたり、哲学にどのようなイメージをもっているのか。

 良いイメージ? 悪いイメージ?

●ソフィスト様が来たら

●拡散する話をどう成果につなげていくか。会の前後で何か変化があるか。話をしてすっきりするだけでいいのか。

 レギュラー化し、新規参入者が少ない。同じ人が発言。 

 

 自由な話し合いは多岐に渡って展開し、面白かったのだが、私(記録者)が印象に残ったものだけを一部下記に記す。

〇哲学や哲学対話の中で、「解像度」を上げていくことについて。

〇一人で哲学を行うことに対して、対話を中心にした哲学実践(プラクティス)の意義について。

〇外的要因より内的動機(パッション)の方が最後は決め手になる。

〇知識をひけらかす助言の問題性。求められもしないのに行う助言の傲慢性。

〇エンカウンター・グループのような心理学的グループは、「いま、ここで」の感情や考えに注目する。

〇話が拡散していき、話が長くなる人への対処法

 *ファシリテーターはその話がテーマを深めていく筋道とは異なる、拡散的なものであることを認識しておく。

 *長い話の中で、いいところを拾って、全体に繋げていく。

 *話の要点だけは黒板に書いてあげて(尊重の姿勢)、全体の流れの中では流していく。

 *話が長すぎる場合は、「要するに何を言いたいのですか」と当人にまとめの言葉を促す。

(記録:本間正己)

 

【第21回】テーマ:「哲学対話・市民社会・政治」

平成30年6月3日(日)上智大学の寺田俊郎さんをお迎えして、第21回東京メタ哲学カフェを開催しました。今回はカフェフィロとの共催で、テーマは「哲学対話・市民社会・政治」でした。

全員で20名参加という盛況で、刺激的な対話もありました。主催者側としては実施した甲斐がとてもあったものでした。

寺田さんのお話の記録は大部になるので、別のトピック欄に掲載しました。

https://mgasamihonma.wixsite.com/tokyometa/blank-3

ここでは、その後の質疑応答や対話の一部を記録しておきます。

【寺田さんとの質疑応答】(一部のみ)                

 

Q1:哲学が特定の党派・会派に取り込まれてしまう心配があるのではないか?

寺田: 「観察者」に徹しようとしていても、政治に無関係でいることはできない。結果的にコミットしている面がある。

 哲学対話が結果的に新自由主義に貢献しているかもしれない。逆に、新自由主義の人たちからは、哲学対話はリベラルに貢献していると言うかもしれない。大事なのは、様々な政治的立場の人たち同士で対話が成り立つか、ということである。

 

Q2: 哲学的対話の「介入」とはどういうことか? 介入はそれほど意味や効果があるものなのか? 

寺田: 介入とは、学校教育や市民社会における哲学的対話の実践のことである。学校教育では、教育内容・カリキュラムの中での実践があるし、外部講師による出前講座のような形態もある。

 哲学的対話だけで「危機」に対応し、回避できるとは考えていない。しかし、教育的な意味合いで、そこに希望を見いだせる。また、哲学的対話のやり方を工夫することは大事であり、それによって意味や効果も高まる。

 

Q3:熟議ということと論理的に話すこととは?

寺田: 哲学カフェなどでは、通常の話し方で話し、時には感情的になったりもしますよね。論理的に話すというのは、つじつまが合わなくて伝わらないとか、感情的すぎてわからなとか、そういう話し方をしない、ということ。論理的ということは論理学を厳密に適用するというようなことではなく、人に通じるような話をするくらいに捉えておいていいと思う。

 

Q4: 学校における哲学的対話において、その態度と文化が必要なのは校長と先生たちではないか?

寺田:その通りだと思う。生徒たちの哲学的対話において、例えば「制服はいらない」という話が出た時、それを受け止める度量が先生たちにあるか否かで違ってくる。

 実際の現場では難しい問題だと思うが、これらのことを考えることを促す力になっていきたい。

 

Q5: 不寛容にも寛容であるべきか? 暴力もありうるのではないか?

寺田: 不寛容には寛容である必要はない。自由な言論の場では、不寛容を認めることは敗北になる。

 対話の場では、当然に暴力反対である。暴力は例外的、緊急避難的な時にのみ認められる。

 

Q6: 「新自由主義による哲学的対話の利用」とは具体的にどういうことか?

寺田: 子どもの哲学対話の実践(P4C:Philosophy for Children)の中に、「これは合理的・経済的な思考力を涵養するもの」と謳っているものが一部あったということである。

 

Q7: 哲学的対話ができる態度・文化をすべての人が後天的、社会的に身に付けられると考えるのは楽観的に過ぎるのではないか? 一部のエリート層だけではないか?

寺田: 後天的、社会的にある程度身に付けられると考えて実践している。一方、エリート層はしっかりと身に付けてもらわないと困る。

 

Q8:哲学カフェでは危ない問いも出やすいのでは? 

寺田:危ない問いというのは、政治的な問いとは限らない。例えば、「なぜ自殺してはいけないのか?」。参加者が真剣に語っている間は危なくない。ただ、特定の意見(例えば、「いつ死んでもいいんだよ」)が強く出る場合がある。それには、「そうは思わない」という考えを表明する必要がある。

 一方、当たり障りのない、バランスを考え過ぎる問いばかりが出る場合がある。その場合には、その当たり障りのなさ、バランスを突き崩す問いを投げかけ続けていけばいい。

 

 

【対話】(一部のみ)                         

 

◎問い出し

対話をするための問い出しをしてもらう。

*何が危機か?

*哲学的対話の態度・文化は根づくのか?

*哲学的対話の態度・文化とは何か?

*政治的な無関心はなぜか?

*対話に希望は持てるのか?

◎問いを立てる

以上を踏まえて、これからの対話のテーマを決定する。

「哲学的対話に何ができるか?」

◎フリーな対話

*哲学的対話の活動は趣味でいい。対話を楽しめるのがいい。まずは自分の領域を守る。

*エンターテイメント的な面白みは重要である。人間は誰でも知りたい、考えたいという気持ちがあると思う。

*何かしらの指針を得るために対話を行う。

*自分が何者なのかを考えるために対話を行う。これは政治的な波が来た時に考える下地になる。

*哲学カフェでは、何かを構築するのではない。破壊する。微細に差異を確かめる。

*自分とは、自主的なところと社会的なところがある。社会的なところとして政治的なものがある。

*哲学的対話は、産業社会においては何もすることができない。政治に関してもできない。ただただ知を愛する魂による愛の行為である。その行為のみに意味と価値があるとまずは言っておきたい。

*哲学的対話では、あえてみんなで一緒に行動しないで、みんなで一緒に考えることができる。それは広くとらえれば、民主主義という政治の一部である。

*哲学はまだ名づけられていないものにラベルを付けることができる。新しい概念を付けることができる。それはアートとも言える。

*一部の人間のみしか、哲学的な営みはできない。一般大衆はそれができない。

*一般大衆の人も、何かしらの契機で哲学的なことを考えることがある。

*哲学はマイノリティの趣味であり、まずは内側で楽しむことがいい。

*哲学は趣味ではない。他の学問の探求の姿勢・方法等と同じである。

*客観的真理を求めるものと主観的真理を求めるものがある。哲学は後者に属するのではないか?

◎寺田さんのまとめ

*哲学的思考とは全人称的思考である。一人称、二人称、三人称の全ての観点を含む。(主観的、客観的を含む)。そして、より共有できるものを目指す。

*哲学的対話では、一緒に考えるのが「楽しい」というのは大事なことである。ただし、そこからじわっとはみ出た効果も期待できる。両者は矛盾したことではない。

*言論を通じて新しい考えを作っていくことができる。熟議のような対話が増えることによって、外部に影響を与えることができる。

*それは希望とかスピリット的なものではあるが、今後、現場に即した効果的な作法や技法を積極的に考えていく必要がある。

*この社会は産業社会のシステムだけではない。色々なシステムが存在している。よりよく変えられるものなら変えていくのがいい。まともなことが考えられる人が増えることによって、質的に変わっていくと思う。

(記録:高橋あずさ 本間正己) 寺田俊郎さんに確認をお願いしました。

【第20回】テーマ:ブームとしての哲学カフェをマーケティングする~哲学カフェにとっての、競合とは?脅威とは?」

 

 平成30年5月6日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館にて、12名(男性10名・女性2名)の参加で実施した。

 テーマは「ブームとしての哲学カフェをマーケティングする~哲学カフェにとっての、競合とは?脅威とは?~」であり、キックオフトーカー&ファシリテーターを齊藤充さん(対話学舎えんたらいふ)にお願いした。

 

 今回SWOTの手法を使って、哲学カフェというものを分析した。まずは2つのグループに分かれて、以下のような洗い出しを行った。(一部のみ記録)

 

S(Strength):内部環境としての「強み」

*楽しい *共感が得られるとうれしい *他人との意見の違いがわかる *異なる視点が得られる *他者の意見から気づきを得られる

*異なる立場、思想でも話し合える *考える練習ができる *理論的にまとまる *正解なき問いの解決法 *テーマについて深め方、拡がり方の良さ

*ふだんできない話ができる *うっとうしい話ができる *知らない人と交流できる *意見と人格が切り離されている *哲学には2600年の歴史がある

*フォーマットがないのが弱みでもあり、強みでもある *品質保証されないのが弱みでもあり、強みでもある

 

W(Weakness):内部環境としての「弱み」

*結論がない *金が取れない *500円払う対価 *マーケットが少ない *集客力がない *敷居が高い *訓練が必要 

*「哲学」というネーミングが分かりづらい *考えたい人は少ない *考える練習にならない

*哲学対話をする土壌が育っていない(意見、反論の作法が身についていない。意見と人格が分かれていない。)

*ファシリテーターの力量がまちまち *読書会、茶飲み話などとの違いが不明 *ずっとしゃべれない、聞かなくてはいけない

*告知少ない、参加しづらい *話が空中に消えていくだけの対話の限界 *参加者の保証もできない(例えば、自分語りだけする人)

*対話では私の問題は解決しない *気持ちの整理はできない *自己表現活動はない *行動はない

 

O(Opportunities):外部環境としての「機会」

*不安 *格差 *不況 *人口減 *地震 *価値観の多様化、流動化 *マイノリティの声 *教育、道徳 *アクティブラーニング

*右脳、左脳の整理 *政治上の対話 *政治思想の異なる人たちの対話 *福祉(ケアの方法、死とは?) *ウツからのリハビリ

*家に閉じこもっている人の外での居場所 *生き甲斐づくり *対話ブーム

 

T(Threats):外部環境としての「脅威」

*趣味の同好会 *別の社会貢献団体(NPOなど) *飲み会 *サード・プレイス *学校 *フリー・スクール

*公民館、図書館、美術館、博物館 *ネット *セラピー *グループ・カウンセリング *当事者会 *ダイアローグ・イン・ザ・ダーク

*対話研修会、哲学対話レッスン *自己啓発 *コーチング *哲学カフェの乱立 *日本人の話し方、対人習慣

*常連 *哲学カフェのネタに飽きること(主催者・参加者) *全体主義 *宗教 *科学

 

この後、以上を踏まえて、全体でフリーな対話を行った。(一部のみ記録)

〇「品質保証」は非営利性の場合、どれほど求められるのか? 必要最低限なレベルの品質は備えていた方がいいと思われるが…。粗悪なものは参加者たちによって、自然に淘汰されるのではないか。

〇SWOTは一つの組織体として、顧客の拡大や利益率の向上など目標が明確な場合には有効な手法だが、哲学カフェのように目的・目標が曖昧なものには適用しにくい。ただし、哲学カフェの大まかな将来像を描くには使える方法である。

〇哲学カフェを「昇華」していく。哲学カフェのみにこだわらず、「哲学プラクティス」として広く捉えていく段階に来ている。

 

【第19回】テーマ:「どうしたら「よく〈聴く〉、よく〈話す〉」がより充実するだろう?

20180408(sun)  第19回東京メタ哲学カフェ

テーマ:『どうしたら「よく〈聴く〉、よく〈話す〉」がより充実するだろう? ~哲学カフェでの対話とナラティヴ~』

進  行:芹沢幸雄 (さろん代表)

参加者:14名

配布資料:前回アンケート集計結果(1枚)、スライド印刷物(2枚)、アンケート用紙(1枚)

 

開催レポート:

(前半)

はじめに芹沢氏からの基調報告のプレゼンテーションが行われた。

氏が代表を務める団体「さろん」の活動紹介、基本ルールの紹介が行われたのち、実施した哲学カフェの内容についてMTGでどう振り返っているか、その方法やそれを採用するにいたった背景などが説明された。同時に、指標に基づく振り返りだけでは決して十分とはいえない哲学カフェにおける「評価」と、各回の「充実度向上」について、どうやって根本的な見直しを進めていけるのかが今後の課題だということが提示された。

そのあと「さろん」の事例紹介からもう少し大きな枠組みへと話しの射程が拡げられた。哲学カフェ運営者が直面する具体的な課題について、外部の有識者や書物から積極的に学び研鑽していくことが必要不可欠だろうという指摘がなされ、氏が前回(第7回東京メタ哲学カフェ,20170205)担当した【哲学カフェ相互の交流/協働にはどんなあり方が可能か?】において、なぜ先行論文の講読を行ったのか、という背景が詳述された。

武田論文「哲学カフェにおける対話と哲学性」の要約紹介されたのち、そこで提示されていた、“他者と「話す」こと・他者の声を「聴く」こと”と、内省の関係性について簡単に触れたあと、“哲学カフェにおける対話”(≒哲学対話)の原点であるこの「話す」「聴く」について、改めて体験的に、実践を通じて考察してみる、という今回の本旨について説明がなされた。その際、ふだんの哲学カフェでの対話を相対化するために、敢えて普段とは異なるエクササイズをさまざまに試行すること、エクササイズではできるだけ「よく話す・よく聴く」を意識しながら参加するように、との話しがあった。

 

エクササイズ1: 

a)4人一組で哲学カフェに関連して参考にした本の紹介(持参していない人は哲学カフェに参加するきっかけ)を順番に行った。

b)ワールドカフェ形式で卓を移動。移動元の卓で印象に残った話を、移動先の卓で、「よく話す・よく聴く」を意識しながら順番に披露していく。

エクササイズ2:

a)前回(第7回東京メタ哲学カフェ,20170205)参加者によるアンケート集計結果見て、各卓で“イシュー”(これについて話したい・考えたい)を一つに絞り、時間内に決定する。

b)各卓ごとに、選択されたイシューを発表。

  A卓*【論理的に整然とした発言に埋もれがちな声に耳を傾け、拾い上げるためにはどうすればよいか?】

  B卓*【楽しさだけじゃだめ?(いいじゃん!別に)】

  C卓*【対話と内省の関連について】

 

(後半)

エクササイズ3:

a)   休憩前に披露された三つのイシューのどれについて自分は話してみたいかを決めて、その卓に着く。

b)   制限時間内で、そのイシューに対する自分なりの解答を用意するように対話を行う。

c)   ワールドカフェ形式で卓を移動。移動元の卓でのイシューとそれに対する解答を、移動先の卓で制限時間内で紹介する。「よく話す・よく聴く」を意識しながら。

エクササイズ4:

a)   今日ここまでで話し合ったことや、アンケート結果などを踏まえて、「自分が明日から取り組んでみたいと思うこと」を1分にまとめる。

b)   「よく話す・よく聴く」を意識しながら、各卓の隣の人とスピーチし合う。

c)   つぎに同卓の別の人と組み、「自分が聴いたスピーチ」について、「よく話す・よく聴く」を意識しながら、紹介し合う。

d)   同卓で最後に残った人と組み、「自分が聴いたスピーチ」について、「よく話す・よく聴く」を意識しながら、紹介し合う。

e)   d)のとき、目の前の相手が話す「自分が聴いたスピーチ」は、いちばん最初に「自分が明日から取り組んでみたいと思うこと」として話したこと(が伝聞されたもの)になっているので、自分が話したことを人の口を借りて自分自身が聴き直す、という構造になる。「よく話す・よく聴く」を体験として振り返ることになる。

 

4種のエクササイズを駆け足で行ったため、二時間ゆったりと一つの問いに集中するというふだんの哲学カフェに慣れている参加者にとっては、ずいぶん気忙しく、落ち着かないものと感じられた。

一方で、「傾聴しながら理解する」、「要約しながら簡潔に説明する」、「複数の話題から一つを選択して話を進める」、「テーマについて一定の見解を持つに至るよう働きかける」という一つ一つの振る舞いは、“哲学カフェにおける対話”のなかで、特に進行役を中心にごく一般的に行われていることでもあるのだった。この振る舞いが哲学カフェにおける、よく「聴く」・よく「話す」に本質的に影響してくる部分だと感じられた。エクササイズの中で、「適切に要約して紹介する(参加者の発話内容・前提の確認)」、「時間内に話題を決める(選択する)」、「解答すべく検討を進める(問いや議論を深める・仮説を立てる)」という風に各部分にだけフォーカスを当てられると気づきにくいが、“哲学カフェにおける対話”はただ平板で共感的な対話であるのみならず、本来こうした各種の転換(行為)が適切にもたらされることによって深まり、再考され、拡がりあるいは収束したりする。場によって醸成されるこの運動に“哲学性”は強弱し、参加者の内省にも決定的な影響をもたらす、ということを(不親切なことに、氏はなぜか意図開きをしなかったが)後からぼんやりと感じる時間であった。

芹沢氏はまた、こうした転換は、哲学カフェだけでなく、運営面(MTGや会議等)でも適切に行われることが望ましいと語った。こうした転換を適切に設けるためにも、「よく聴く」ということと、特に「よく話す」ことが大切だということが繰り返し指摘された。「よく話す」とは、伝わりやすい言い方や語彙の選択だけでなく、適切なタイミングで適切な内容の問いかけや選択、意見表明を行うなど、コミュニケーション促進のための全般的な振る舞いとその効果をも指すということがよくわかった。

最後に氏から、今回のテーマに戻っての総合的なまとめ報告プレゼンテーションがなされた。哲学カフェをはじめとするコミュニケーション行為は、自分とは異なる当たり前を持つ他者とのあいだで行われる営みであり、そこで生じる学びには大きな意味がある、それが楽しさでもあると指摘された。そして最後に「とくに主宰者同士としての意義深い協働をこれまで以上に積極的に促進していければ」と語り、「よろしくお願いします」と結んで終了となった。                  (文責:セリザワ)

【第18回】テーマ:「偏見とは何か?」

平成30年2月4日(日)13:30~17:00

参加者9名

報告 佐野佳子(対話の実験室@公-差-転)

 

はじめに、質問で相手の考えの根底にあるものを明らかにするワークをしました。

相互質問法に倣って、私が考えたジェンダーに関わる問いとそれに対する4つの答えを設定しました。

--------------------------------

問い 「男は女より強い?」

答え

A うん。だって男の方が力があるもん

B うん。それってあたりまえでしょ。

C ううん。男の人でも弱い人はいるよ。

D ううん。強いかどうかに性別は関係ないもん。

--------------------------------

1人が答える役で、それ以外は質問をしていきます。

 

その後「偏見とは何か」について話し、以下の意見が出ました。

決めつけ。自分の経験を、相手にも押し付けること。

相手は違うかもしれないという前提がない。

悪意の有無、優越感、自己防衛が偏見につながっているのでは?

自分の心の中にあるときは偏見ではなく、言葉にして出たときに偏見になるのではないか。

1つのことを、それが含まれるカテゴリのすべてに当てはめること。

検証をやめること。

固定化したもの。

「自由」という理念も偏見?

価値観と偏見はどう違うのか。

 

その後、対話の場における発言について話しました。

特定の集団や属性を批判することについては、

その立場の人がその場にいる可能性があり、

また、集団と、属する個人は完全に同一ではないことを見落とすと問題が起きそうです。

 

今回、質問することを重視しました。

答えない権利があるのは当然ですが、力関係を感じると、言いたくない気持ちに反して言ってしまったり、

意見を言いたくても言えなくなる可能性があるので、

その都度尋ねるか、はじめに全員で確認しておくべきでした。

 

【第17回】テーマ:「哲学カフェの「楽しさ」、「楽しさ」の哲学

(報告者:新妻弘悦(哲学カフェ@神保町))

 2018年1月14日、今年最初の東京メタ哲学カフェが開催された。テーマは「哲学カフェの楽しさ、楽しさの哲学カフェ」

 参加者は6名(体調不良で2名欠席)。皆さんなんらかの形で哲学カフェに関わっておられる方々であった。

 各参加者の自己紹介、活動紹介などを経て、当日のファシリテーターである新妻より

①    哲学カフェに参加する楽しさ

②    非営利である哲学カフェを運営する楽しさ

③    デイサービス利用者にとっての楽しさ

についての事例を紹介後、全体での対話となった。

 「楽しさ」は人それぞれの主観であり、哲学的な題材になりにくいため、対話があまり深まらないのではないかと予想していたが、

・哲学カフェの楽しさの構成要素とは?

・今は苦しくても、将来に楽しいことがあるということもあるのではないか?

・楽しい哲学カフェにするために、ファシリテーターの責任は?

・短期的な楽しさと長期的な楽しさの違い

・結果の楽しさと過程の楽しさ

・能動的な楽しさと受動的な楽しさ

・「中動態」的な楽しさはあるのか?

などなど、少人数だけにいつもより一人一人が多く話すことができた。

 個人的な興味として、この数か月哲学カフェに参加していて「楽しくないな」と思うことが何度かあって、その理由を探りたいと思っていた。対話を終えて「楽しさ」が対話前よりも分からなくなっていた。その「分からなくなる」感じを楽しめる能力・才能の問題なのか、それとももっと他に「楽しくない」理由があるのか、今後も探求していきたい。

【第16回】テーマ:「作品とは?」

企画 ファシリテーター 報告者 岡村正敏(ケアと生涯学習をアートで結ぶ活動)

 

以下、東京高田馬場にて開催された哲学カフェ『作品とは?』のレポートです。

平成29年12月3日(日)午後1時30分~5時、参加者8人(男性6人、女性2人)で実施されました。

●プレコンセプト

哲学カフェに約1年参加してきて思った事。それはダイアローグに重点が置かれすぎる結果、「対話のスキル(質問や傾聴のスキル)」や「対話の意義」が前面に出すぎてしまい、そもそもダイアローグと一体を成す筈である、個人の主張=モノローグの部分が十分に意識されていないのではないか、という所感を抱いてきました。そこで今回は実験的にダイアローグパートの後に、モノローグパート(リフレクション+リコントラクション=振り返りを材料にした主張の再構築)のパートと発表のパート(再構築した主張を言い切る)を組み込んだプログラムデザインを試みました。

●コンセプト

ダイアローグにおけるモノローグの重要性の再確認。あるいは関係性における主体性の重要性の再確認。

●方法

次の3つのパートに分けたプログラム構成を試みる

・ダイアローグパート

・モノローグパート(休憩+リフレクション+リコンストラクション)

・エクスプレッションパート(主張内容だけでなくそれをどのように表現するかも含む)

●プログラム

挨拶等5分

自己紹介 一人1分×7=7分+3分=10分

対話『作品とは?』50分

纏め(休憩+自由対話+纏めシート記入 8分以内での発表を目安) 25分

発表(一人8分以内。一言感想でも可。したくない人はしなくとも可)

ホワイトボード使用可。1人8分×7=56分+4分=60分

●工夫

・テーマが「作品とは?」なので対話の糸口になるように画集などをテーブルに並べ、自由に閲覧できるようにしておく

・休憩時間の活用。重要な対話は休憩時間などのさりげないコミュニケーションの中で成されていることも多いので、モノローグパートを休憩と兼ねさせる

●対話パートの具体的な内容

「作品とは?」で交わされた対話の内容を断片的(そして主観的ではあるが)に以下に記します。

・レコードジャケットは収録された曲やレコードそのものと一体をなして作品となる場合があるが、作品とならない場合もある。ジャケットそのものでは作品ではないのに総合されると作品化されるのはなぜか?CDジャケットはジャケットデザインと曲、CDがあ分離している傾向が強い。

・人工物以外の自然物(例えばグランドキャニオン、蜘蛛の巣)は作品か?

・子供は作品といえるのか?生むと産むの違いと作品との関連(作品を産むとは言わない)

・誰かに承認されなければ作品ではないのか?作者一人が鑑賞者の場合は作品ではないのか?または作者も鑑賞者も不在な自然物は作品か?あるいは作者が作品と認めなくとも誰かが後々作品として承認した場合それは作品なのか?

・そもそも承認とは何か?承認とは価値だろうか?

・価値とは目的にかなう価値、有用性の価値だろうか?

・作品の価値とは既存の価値を揺さぶる逸脱性にある。それは目的性や有用性からの逸脱ともいえる。

・しかし逸脱性そのものがすでに飼いならされ、目的性や有用性に回収してしまう回路が出来あがっている社会に私たちは生きている。結局作品の価値とは、社会の価値体系の内部でしかありえない。つまり目的性や有用性から、本当の意味で逸脱した価値などはありえないのではないか?

・頭の中合でイメージしただけでは作品ではないだろう。理由は鑑賞者がいないから。そして社会性を持たないから。つまり承認がないから。

・いやイメージしただけでも作品である。この場合自分が鑑賞者であり承認するものであるからそれは作品の成立条件である。

●リフレクション

自分の主張を再構築(リフレクション+リコンストラクション)する事は苦手な人は苦手であり、今回得手不得手の傾向がきっぱり分かれる事になりました(得意であり好きが多)。また発表して言い切る事(エクスプレッション)に対しても、同様に傾向が二分されました(得意であり好きが多)。しかしこれはあくまで得手不得手や事前の準備の差(そしてこれまでの思索の経験の差)であって、再構築そのものを拒む理由や態度は、今回参加者にみる事はありませんでした。そして同様に、主張の言い切りに関しても得手不得手と経験の差であり、自分に合った表現の方法(例えば図や文学的に表現する等)が見つかれば、表現すること自体を各人楽しむ事は出来たと思います。この事から、主張の再構築と表現は環境と方法論と継続的な実施の場さえ設けられれば、芽は枯れることなく育ってくのではないか、そういった可能性は感じられました。今後も同様のプログラム構成を試していく考えでいます。

 

【第15回】テーマ 各哲学カフェから課題・話題を出し合う

第15回東京メタ哲学カフェは平成29年11月5日(日)午後1時30分から5時まで、8名(男性7名、女性1名)の参加をえて実施された。今回の進行役は、本間(人生カフェ)である。

テーマは、『各哲学カフェから課題・話題を出し合う』である。参加したそれぞれの哲学カフェの運営者から、自らの会の課題や話題を出してもらい、そこから対話を展開するというものである。

今回の参加者の内訳は、運営者5名、一般参加者3名といったものであり、主に運営者の方から話題を提供してもらった。(以下は主なものだけである。)

①  ファシリテーターを置かないというやり方について。

  参加者が通常の市民性を有しているなら、ファシリテーターを置く必要はないとも言える。しかし、一定のルールを守ってもらうためにファシリテーターは必要であるという考え方もある。また、参加者の中に一定の仕切りをファシリテーターに期待する向きもある。

②  社会活動と哲学カフェについて

例えば、差別・偏見に立ち向かう社会活動と哲学カフェの実践との関係についてである。単なる趣味の領域のものではない、単なるおしゃべりではないものを哲学カフェに求めたいということである。だからといって、限られた時間内の哲学カフェにおいて、社会活動的な内容のものを盛り込むことはそれなりに難しい。

いずれにせよ、その哲学カフェの目的・趣旨といったものが対外的に分かるように示す環境デザインといったものは大切である。

③  哲学カフェの品質について

例えば、参加者から出された考えが、思考の型(パターン)などにより整理され、深められていく哲学カフェは質が高いと感じられる。このことはファシリテーターの力量に寄るところが大きい。

しかしながら、哲学カフェはファシリテーターだけでなく、参加者とともに作るものである。その「場」を高め、深める発言をしていくことは、参加者にも大いに求められる。

④  哲学的方向と心理学的方向の分裂について

哲学カフェにおけるテーマを探求していく哲学的方向を重視していく立場と、哲学カフェにおける平等性や安全性など心理学的方向を重視していく立場が、実際の運営上対立する場合がある。

両者をどうブレンドするかは主催者側でよく吟味するべきことであり、結論については対外的に分かりやすく示す事柄でもある。(環境デザイン)

 

 このように各会の課題を出し合うことは、具体的でリアルな内容なので、学ぶことは多い。半年に一度くらいはこのような会をやっていってもいいのではないかと思った。

 

 それから、今回、先日の哲学プラクティス連絡会・第3回大会を振り返ることを少しだけした。

 その中で、職業(プロ)としての哲学プラクティスがかなり前面に出てきたという印象を受けたという意見が出された。プロというのは、大学の先生だけでなく、小中高の先生も含むし、カルチャーセンターのような成人教育機関の講師も含む。これは、ボランティア(アマ)としての哲学プラクティスと対比するものである。

 この分野がプロとしても徐々に成り立っていっているという成熟の証でもある。一方で、この東京メタ哲学カフェに集う、ボランティア(アマ)としての哲学プラクティスを行っている者たちはどのように位置づけられるのかを考えさせられた。

【第14回】テーマ    アーダコーダってナーンダ?~アーダコーダのこれまでとこれから~

アーダコーダ事務局の小川泰治さんをゲストにお迎えして、「アーダコーダってナーンダ?」~アーダコーダのこれまでとこれから~というテーマで実施した。

 平成29年10月1日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の新宿消費生活センター分館で行った。小川さんを含めて11名(男性6名・女性5名)の参加で、哲学対話等の運営者が9名、一般の参加者が2名という内訳であった。

 

 最初に、いつもの東京メタ哲学カフェと同様に、参加者の自己紹介や運営している哲学カフェ等についての紹介を30分ほど行った。

 続いて、小川さんから第一部として、アーダコーダの紹介をしてもらった。パワーポイントのスライドを使った、とても分かりやすい説明であった。(アーダコーダのHPはぜひご覧ください。)アーダコーダHP  http://ardacoda.com/

 この後、アーダコーダについての説明に対しての質疑応答を行った。

(この後については小川さんのスライドや発言、参加者の発言そのものではなくて、当報告者(本間)が印象に残ったところを抜粋して、要約したり並べ替えをしたりして記述したものである。したがって、文責は当報告者にある。)

 

【質疑応答】 

(・は参加者、*は小川)

・小川さんが半年間アーダコーダの事務局をやってきての率直な感想は?

*忙しくて、たいへんだが、楽しい。いろいろな人からメールが来て、何か哲学対話のようなものを開きたいといった問い合わせに対して、お手伝いできるのはうれしい。事務的なことだけでなく、理事の人たちが忙しいこともあって、アーダコーダの運営的なことにもかなり関わっている。

・NPOを維持していくことは金銭的にもたいへんなことではないか?

*来た仕事を受ける、損する仕事は受けないということが基本である。だから赤字にはならないで、維持することは可能である。

・お金をもらうということで、アマチュアではなくプロということになり、その違いはあるのか?

*スキルとか、特別なプログラムとかいったことではなくて、スタンス(姿勢)の違いはあり、やはり緊張感を持って臨んでいる。

・子ども哲学入門講座・実践講座について知りたい。

*入門講座では、哲学対話について知りたい、自分でもやってみたい、というような方を対象に、子ども哲学の基礎的なことを学んでもらう。実践講座では、実際にファシリテーションを経験してもらう。受講生だけに配付されるテキストというものもある。しかし、子どもの哲学対話はこうでなければならないという押し付けをするものではない。

・インターン制について知りたい。

*子ども哲学入門講座・実践講座と連動して、さらに学びたい、自主的に活動したいという方たちのためのものである。実際に、鎌倉や中央区で子ども哲学を実践し始めている。

・道徳の教科化が進む学校教育を変えてほしい。その切り込み方は?

*学校教育を変えていきたいということはある。ただし、型を作ってやっていくと入りにくいし、応用がしづらく、シェアしにくい。答えのない問いを一緒に考えていく、フラットな関係の中で考えていく、といったスピリットを共有化していきたい。

・ファシリテーター養成講座のようなものは他でもやっているか?私でも身に付くことができるか?

*カフェフィロでも不定期に実施している。受講すればすぐにファシリテーターができるというものでもない。哲学対話をやっている場に出て、実際に経験してみるのがいい。もちろん、これだといった一つの型があるというものではないと考えている。

・ビジネス・パーソン向けの哲学対話とは何か?

*会社の研修などで行われており、前提を覆すとか、長いビジョンを持つなどの哲学対話的な考えは企業でも受け入れやすい場合がある。また、フラットな関係で対話をするということが、上下関係がはっきりしている企業風土において新鮮に受け取られることもある。

・ディベートからファシリテーションへと移ってきているのではないか?

*パターン(型)化したファシリテーションは一つの市場になっているくらい拡大してきている。それと哲学対話はどう違うのか、そのあたりの私の考えを第二部でお話したいと思います。

 

 休憩後の第二部は、アーダコーダも含んだ哲学対話の経験から、小川さん自身の見解を披露していただいた。

【小川さんからの問題提起】

*哲学対話のウリとはなにか。他の対話型の活動と哲学対話はなにが違うのか。

*「哲学は悩みや課題の解決に役にたつ」 でも、どうやって?

*それは「問い自体を問い直しながら考えること」である。

*問い方も答え方もまだよくわからないことを手探りで考えていく、といったイメージである。モヤモヤを問いにしてみる。問いそのものを問い直す。問いをその場で更新していく。自分の問いに気づく。……

*哲学対話の場では、そういったことを意識的にする、あるいは、「哲学的に」考えようとするとき自ずとそういうことが起きているのではないか。

*その他の対話の場では哲学対話ほどはっきりとは問いの問い直しや問いの構築、更新は行われていない。

*本当に苦しい悩みや課題に直面しているときは、問い(問題)がちゃんとわからない、どうやって考えたらいいかわからないときである。

*哲学(対話)することは、自分が本当に悩んでいることや課題とは、本当はどんな問いのもとにあり、その問いをどうやって考えていけばよいか、を明らかにしてくれることがある。

*〈補論〉哲学対話のケア的な側面(哲学対話の場が、参加者にとってとてもケアされるような体験を生み出すということ)は、哲学対話が問いを問い直すことをすることと無関係ではなくて、密接に関係していそう。でもまだそれがなにかはよくわからない。

 

【質疑応答・対話・感想】 

(・は参加者、*は小川)

・「問いを問い直す」といっても、大人と子どもでは異なるのではないか。

*問いを問い直すということはどの世代でも行われることである。ただし、中学生くらい以上の、自分の悩みや課題から問いを立て問い直していくのと、小学生低学年以下の、知的に楽しくて問いを立てていくのでは異なるところがある。大人の方は自分の問いとして、引っ掛かりモヤモヤとしながら、煮詰まってきた際に問いの問い直しが起きることがある。

・「思考の筋トレ」と「ケア的なもの」とは異なるのではないか。アーダコーダは筋トレ的なもの(論理力、コミュニケーション能力の養成など)に重点を置いているのではないか。

・ケア的なものは結果として得られるものであり、そもそもお金になるようなものではないのではないか。

*アーダコーダはケア的なものを主たる目的にはしていないが、問いの問い直しを追求していくことはケア的なものに繋がるものがある気がする。

・「質問」と「問い」とは異なることなのか。

・実際の哲学カフェなどでは答えを考えている時間の方が長いのではないか。問いの問い直しが必ずしもいい方へ行くとは限らない。また、問いの問い直しは哲学対話以外でもやっているような気もする。

*質問とは特定の相手に対してするものであり、問いとはみんなに対して、その「場」に対して行っている場合がある。

人は問いを出されると答えようとする。しかし、答えを言い合っているだけでは楽しくない。問いをみんなで決めていくことは楽しい。

問いの問い直しを意識的にやっていくのが哲学対話である。ファシリテーターなどが最初にこの点を強調することはありうる。

・私は哲学対話において、論理的であることを参加者に強調はしない。

・感情のモヤモヤを哲学対話で出してはいけないのか。

・若い人はお互いの差異を取り上げるよりは、同調する傾向が強いのではないか。

*哲学対話においては、「前提を疑う」ということがある。これは必ずしも論理的というのではなく、哲学的・批判的思考というものである。

感情が極まるといったことも話してもいい。それを受けとめることは難しいかもしれないが、そこから哲学対話が始まることもある。

誰かに背景や要因がある問い、いわゆる参加者の「誰かの問い」は楽しい。

・子どもと大人では、哲学対話において本質的な違いはあるのか。実践上の違いはあると思われるが。

*答えが出そうにない問いを考えることの楽しさという点では、子どもも大人も哲学対話において本質的な差はないと考える。もちろん実践上のたくさんの差異はあるが…。

外国では、子ども哲学と大人の哲学カフェは出自と目的が異なるが、日本では子ども・大人の区別なく、「哲学対話」というものが先にあった感があるのが特色である。

子どもの学校内の哲学対話においては、「教育」という側面は一般的には外せない。このあたりも本当はもっと自由に考えたいが…。

・リップマンの子ども哲学は日本では現在どのように受け止められているか。

*リップマンの子ども哲学に対するスピリット・本質といったものはまだ風化していないと思われるが、やり方はかなり日本的にバリエーションに富んできている。

・アーダコーダさんはNPOの団体として、もっともっと企業や学校に切り込んでいってほしい。

・アーダコーダさんは、この哲学対話のギョーカイの外から見る視点をさらに取り入れていくとともに、これはできませんという誠実に限界づける説明も今後期待したい。

*確かにアーダコーダは万能ではない。哲学対話の失敗例もある。これらを踏まえて誠実に限界づけることも考えたい。哲学対話のスピリットを大切にしながら…。

今日は普段お話をあまりできない方々とじっくりお話ができて、いい時間が持てました。ありがとうございました。

【第13回】テーマ   哲学カフェから帰っても哲学してますか?対話してますか?哲学対話してますか?

キックオフトーカー&ファシリテーター役を行った、いちろうさんに報告文も書いてもらいました。

 

僕が立ち上げの頃から参加している東京メタ哲学カフェに進行役として参加しました。

参加者は、哲学カフェの開催側の人が僕も含めて4名くらい、そうでない人が4名くらい、合計8名でした。

このくらいの人数が話しやすいかも。

ここは、13:30~17:00と、哲学カフェにしては長丁場です。

まず、主催者(僕ではないです)の進行で自己紹介。哲学カフェ関係者の情報交換みたいな意味もあるのでちょっと長めに30分弱。

そして、僕が設定したテーマ、「哲学カフェから帰っても哲学してますか?対話してますか?哲学対話してますか?」で話し合い。

練習台として、あまり意味のないパワポも使いました。

(一応ですが、これは哲学カフェの標準的な進め方ではないです。)

僕としては、「哲学してますか?」と「対話してますか?」が絡み合って進む感じを予想してたけど、

結構、「哲学してますか?」のほうに引き寄せられていた気がします。

今日の参加者は、哲学的な話をする場への飢餓感みたいなのが強かった気がします。僕も含めて。

対話志向な人が多いと、また別な展開なんだろうな。

あと、当初の想定としては、哲学カフェでやっている哲学(対話)について前提の了解があるうえで、それ以外の場で、その哲学(対話)をしているか、という問いをイメージしていたけど、

そもそも、哲学カフェでやっている哲学とは何か、という方向に話は進んでいきました。

哲学が好きな僕としては、皆さんの哲学に対する熱い思いが聞けて嬉しかったです。

こういう、濃いメンバーで話せるのは、東京メタ哲学カフェならではかも。

時間がなく、僕の感想をきちんと話さなかったので、残しておきます。

「哲学カフェでやっていることは、哲学対話とも呼ばれるとおり、哲学でもあり、対話でもある、っていうことなんだろう。

純粋な哲学ではなく、そこに対話という夾雑物が入り込んでおり、純粋な対話ではなく、そこに哲学が混じっている。

哲学と対話の混合物のような中間的な営みが、哲学カフェで行われている哲学対話なのかもしれない。

だから純粋な哲学より間口が広いし、純粋な対話より味わいがある。そこに哲学対話の魅力があるのかもしれない。

 

僕にとっては、哲学カフェはリハビリの場とも思う。

今日の話でもあったけど、哲学とは、哲学をせざるを得ない人にとっては、どこまでも深い穴を掘ったり、底なし沼で足場を探すようなもので、

終わりのない孤独な作業だ。そのような人にとっては、哲学カフェとは、一時的な足がかりであり、いったん地上に戻って一息をつくような場のように思える。

一方で、想像だけど、哲学を当面必要としていない人にとっては、哲学カフェとは、いっとき、深い穴や底なし沼を覗き込むようなものなのかもしれない。

いつか哲学が必要となった時に、こんなのがあったと思い出すために。または自分がしているのが実は哲学だと気づくために。」

​ 【第12回】テーマ  哲学カフェにおける『いいテーマ』とは何だろう?

 第12回東京メタ哲学カフェが、平成29年8月6日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の消費生活センター分館で開催されました。

 参加者はスタッフも含めて11名(男性のみ)でした。①哲学カフェ等の運営者、②哲学カフェ等をこれから運営することを考えている人、③哲学カフェ等に関心のある人、それぞれが3分の1くらいずつ参加しました。

 最初に全参加者から、自己紹介や会の紹介をしてもらいました。

 次に、キックオフトーカーである本間正己(人生カフェ)からの話と参加者による対話を1回の休憩を挟んで行いました。

【危ないテーマとは?】

(キックオフトーカーの話)

 危ないテーマの例としては、政治、宗教、歴史観などの分野でのテーマがいくつか考えられる。また、差別意識を含んだテーマが挙げられる。 

 危ないテーマとは、意見が対立するテーマということではなくて、人の心を傷つけるテーマのことを言うのではないか。

 危ないテーマだからといって、必ずしも悪いテーマではない。しかしながら、危なかっしいテーマを取り上げることで、注意を引いたり、面白い・いいテーマだと考えるのはいかがなものか。

(参加者による対話)

 哲学対話にならないようなテーマは危ないテーマになる可能性がある。「前提が一つの方向に片寄っているテーマ」「具体的な事柄に対して是非を問うようなテーマ」などは恣意性が高く、哲学対話にならない危険性がある。

 説得や合意形成を唯一の目的にしたテーマ(これはそのようなファシリテーションにつながる)は危うさがありそうである。

 また、特定の人たちを傷つける危険性があるテーマは避けた方がよさそうである。

 いずれにせよ、「いいテーマ」の反対に「危ないテーマ」があるわけではない。危ないテーマを考えることは、いいテーマを考える上での参考(補助線)に過ぎない。

 

【いいテーマとは?】

(キックオフトーカーの話)

  一般的には、その哲学カフェの目的に沿ったテーマ、参加者の需要に合ったテーマ、ファシリテーターが興味・関心を持ち、その力量に合ったテーマが、いいテーマと言えるだろう。

 いいテーマを考えていく上での、いくつかの観点を例示したい。①個別的(SMAPはなぜ解散したのか?)と普遍的(「ある」とは何か?) ②択一的(人生は苦しいか?楽しいか?)と本質的(人生とは何か?) ③how to(気分がへこんだ時はどうするか?)とwhat,why(気分とは何か?) 普遍的、本質的、what,why のテーマがいいテーマと思われがちだが、果たしてそうだろうか。実際の哲学カフェでのテーマとしては、微妙なバランスの中で考えられている。

 「哲学の問い」と「哲学カフェでの問い」とは、実際上は若干異なると思われる。哲学カフェは複数の生身の人間が顔を合わせて行うものだから、そこには一定の配慮がどうしても求められると考える。

(参加者による対話)

 概念の更新が期待できるテーマ、新しい視点が期待できるテーマ、盛り上がり(ライブ感)が期待できるテーマなどがいいテーマとして提示された。これらはテーマに基づいて展開される哲学対話そのものとの関連を重視する観点である。

 集客(マーケティング)にふさわしいテーマかどうかという観点も出された。

 ラディカル(根源的)な問いこそがいいテーマである、あるいは2千年以上にわたる哲学史上において絶えず問われてきたテーマがいいテーマである、といった提案もされた。これに対して、過去の歴史的なテーマでなく、現代に生きている人たちが歴史の最先端にある哲学カフェにおいて問う新しいテーマにこそ意義があるという意見もある。

日常の肌感覚に沿ったテーマは受け入れやすいテーマとして、いいテーマになる可能性がある。(例えば、「おかずって何だろう?」というテーマをどう捉えるか。)

 

 テーマのことを考えていると、当然、哲学カフェはテーマだけでなく、ルール、プログラム、ファシリテーション、参加者などの要素が絡んでいることが意識されてくる。

 

 今後、いいテーマについて考えていく際は、多くの人がいいテーマと認めている具体的な実例をもっとたくさん集めて話していくのもいいと思われた。

 【第11回】テーマ  『大人の哲学カフェのこれまでとこれから(市民、企業、医療……)』

 第11回東京メタ哲学カフェが、平成29年6月4日(日)午後1時30分から5時まで、高田馬場の消費生活センター分館で開催されました。

 寺田俊郎さん(カフェフィロ会員/上智大学教授)を講師&進行役でお招きし、「大人の哲学カフェのこれまでとこれから(市民、企業、医療……)」というテーマで実施しました。

 参加者はスタッフも含めて18名(男性12名、女性6名)でした。①哲学カフェ等の運営者、②哲学カフェ等をこれから運営することを考えている人、③哲学カフェ等に関心のある人、それぞれが3分の1くらいずつ参加しました。

 

 最初に全参加者から、自己紹介や会の紹介をしてもらいました。

 

 次に、寺田さんから30分ほどテーマについてのお話をしていただきました。寺田さん自身が主宰する、東京の街中での哲学カフェが始まってからすでに12年になります。東京圏において最も古く、かつ長く続いている哲学カフェであり、その後東京圏に30個以上にもなる哲学カフェに何かしらの影響を与えているものです。これらの経験を踏まえての、哲学カフェの歴史のお話は寺田さんならではというものでした。それとともに、これから未来の企業、医療等での哲学対話の話などはたいへん興味深いものでした。

(このお話の逐語記録:

https://mgasamihonma.wixsite.com/tokyometa/blank-3 )

 

 休憩後、30分ほど質疑応答を行いました。(以下要点だけを記します。)

Q1:寺田さんが主宰している哲学カフェが「ガラパゴス化」しているというのは当たらないのではないか。哲学カフェの本流というのはあるのか。

寺田:『哲学カフェのつくりかた』の本では、私の哲学カフェが10年以上の間、同じやり方をしているということを「ガラパゴス化」と表現したようである。他の形態の哲学カフェとして、シネマカフェ、ミルトーク、テツドクなど、今や多彩に行われている。

 哲学カフェを実施するに当たっては、本流とか、そうでないといったことは気にする必要はない。一定の品質やレベルというものを求められているのではないかと心配するのは分かるが、基本的には自らの好きなやり方でやっていい。権威に乗っかる必要はない。

 

Q2:企業内の哲学対話は、なかなか対等になれず難しいのではないか。

寺田:哲学対話を企業内に持ち込みたいとは考えている。確かに、哲学対話の命である「対等」が企業内では実現しにくい面はある。しかし、自分たちの企業文化を変えたい、そのために哲学対話は役に立つと考えている人たちもいる。

 コミュニケーションをよくする、課題を考える際の力になる、といったことはあり、これは企業にとっても役に立つことである。

 

Q3:哲学対話で相手を傷つけることもあるのではないか。

寺田:確かに傷つけることもあるかもしれない。その場合は率直に相手に謝ることである。

 また、一つの発言によって、対話が混乱することもある。まさに哲学対話はシナリオがない、筋ナシの世界である。そこが面白い。やってみないと分からない。

 終わってみて、つまらなかったという哲学対話もあるだろう。この分からなくなっていくという感覚もとても大切である。

 気にしない、遠慮しないということがひとつポイントである。(ケンカになることもあるかもしれないが……)

 

Q4:哲学対話は、対等に問題に向き合い、批判的思考(クリティカル・シンキング)を展開することではないか。

寺田:世にいう「クリティカル・シンキング」のことはさておき、哲学対話では批判的思考が重要であり、問題に対して、参加者が対等に向き合うことが基本である。身分も地位も関係がない。哲学者(哲学研究者)であろうとなかろうと対等である。「最終的な答えを知らない」という意味では、皆が対等である。

 グーグルで検索してもダメである、権威者の知識も役に立たない。問題に向き合うためには、自分で考え、対話するしかツールがないとも言える。

 

Q5:哲学カフェのマンネリ化を打破するにはどうしたらいいか。

寺田:私の主宰する哲学カフェでは、今までマンネリを感じたことはない。参加者が入れ替わっていることもあるが、テーマについての参加者の発言にはいつも新鮮さを感じる。

 常連さんが同じパターンの発言をすることもあるが、それも面白い雰囲気を作るし、その後の展開は毎回異なっている。

 

Q6:哲学者(哲学研究者)と普通のオッサンが進行役(ファシリテーター)をするのでは違うのではないか。

寺田:ファシリテーターは誰がやってもいいし、誰でもできると思う。

 ただし、哲学研究者等はアドバンテージがある。テーマに対して、どのように対話が進んでいくかをある程度見通しが利くし、個々の発言から、その後の対話の展開が多少読めることがある。対話の哲学的なツボが分かるということである。

 だからといって、哲学研究者等でも対話の進行役がヘタな人がいるし、逆に哲学研究者等でなくてもウマい人はいる。

 

Q7:学校、企業、市民、それぞれ哲学対話の目的としてはどのようなものがあるか。

寺田:それぞれの会、団体によって目的が異なっており、それでよいと思うが、主に私が関係したところを紹介する。

 学校では、対話ができる子ども、コミュニケーションがよくできる子どもを育てるということがある。ESD(Education for Sustainable Development 持続可能な開発のための教育)の一環でもある。これからは道徳教育の分野で活用される可能性がある。

 企業では、社内のコミュニケーションをよくしたい、課題に対する柔軟な思考力・解決力を養いたいといったものがある。

 市民レベルでは、例えば、コミュニケーションをよくしたい、単に「楽しみたい」といったようなものが挙げられる。

 

Q8:医療現場における哲学対話はどのようなものか。

寺田:従来から、臨床哲学の現場として、医療従事者(看護師等)による哲学対話は行われてきた。医療従事者は対人援助者であり、課題は多く、対話による解決の模索が続いてきた。

 ターミナル・ケアなどの場では、特に哲学対話的な活動が求められている。

 

その後、寺田さんにファシリテーターをお願いして、テーマについての対話等を1時間ほど行いました。

 大人の哲学対話と子どもの哲学対話は違いがあるのか、といった問いから、学校での哲学対話の話まで広がりました。また、企業内の哲学対話に関心のある人が多く、この分野の話の展開がかなりありました。学校内にしろ、企業内にしろ、豊かな可能性を持ちながらも、その困難性もいくつか指摘されました。

 話は、政治文化や民主主義、さらには日本における市民のことなど多岐にわたり、行われました。

 このような話の中で、哲学対話における参加者の自由及び対等性の問題や、多様な哲学対話の形に共通する哲学対話の意義や目的は何かといった問題などが浮かび上がってきました。

(この対話の内容の詳細はここには記録しないことにしました。まさにその場に参加した人たちが体験した生のものだからです。参加者は寺田さんのファシリテーターの妙を肌で実感しました。貴重な経験だったと思います。)

 

全体を通して、寺田さんのおかげで、また参加者のおかげで、多様な哲学カフェ・哲学対話を知り、考える機会を得ることができ、充実したものになりました。寺田さん、参加された皆様、本当にありがとうございました。

 

東京メタ哲学カフェHP

https://mgasamihonma.wixsite.com/tokyometa

東京メタ哲学カフェFB

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【第10回】テーマ  『たまには、哲学カフェ(対話)の“ルール”について話してみませんか?』

(記録:本間)

第10回東京メタ哲学カフェは平成29年5月7日(日)午後1時30分から、15名(男性12名、女性3名)の参加をえて実施された。今回の進行役は、齊藤充さん・対話学舎えんたらいふ(ねりまの哲学対話“ねりテツ”)である。

テーマは、『たまには、哲学カフェ(対話)の“ルール”について話してみませんか?』である。副題は、~生命保険と哲学カフェのルールは、定期的に見直した方が、イイ!のか??~というものである。

その解題文としては以下がある。

「対話の導入で説明されることの多い、哲学カフェ(対話)のルール、お約束事。回を重ねれば重ねるごとに、主催者にとっても参加者にとっても耳馴染みとなり、まるで判をつくように、捉えられているような印象も否めない、この“対話のルール”。この“ルール・お約束事”についてあらためて見つめ直し、クリティカルに話し合って みたいと思います。今回、皆さんとの対話を通じて、新たなルールが発見できる!かも(?)しれません(笑)。

「わたしが重視したい対話のルールとは、コレ!!」

・そもそも、なぜルールが必要ナンダロウ?/本当にルールは必要なんだろうか?

・ルールは誰のためにあるのだろう?~「ルールを告げた」という事実で、実は主催者が安心したいだけだったりして??

・対話を自由にするルールと、逆に不自由にしてしまうかもしれないルールについて探ってみよう!

・「そうそう、以前こんなルールに出会ったよ!」って方、いらっしゃいます??

・これからの哲学カフェに本当に必要な対話のルールとは、いったいナンダロウ?」

 

 当日、齊藤さんからはさらに、哲学カフェのルールについて、①ルールへの見方、②ルールとひととの関係、③これからのルール といった観点からの話ができればという追加の提案もなされた。

 最初に、哲学カフェの冒頭に進行役がよく言うルールらしきものを列挙した。「人の話をよく聞く」「難しい言葉を使わない」「人の悪口を言わない」「人それぞれはなし」「長い話はしない」「変わることを楽しむ」「違いを楽しむ」……。(この中にはルールとは言えないものが含まれているという指摘は当然ありうる。)

 ここからルールは何のためにあるのか、といった話になる。とりあえず、①対話の安全のために、②ルール内で対話を自由に行うために、③対話を楽しむために、などが挙げられる。

 さらに、対話を効率化するためにとか、対話の品質を上げていくために、などの発言もあった。このあたりまでくると、ルールだけでなく、それぞれの哲学カフェの目的や実際の運営の問題とも絡んでくる話である。また、各々の哲学カフェの目的によって、ルールが違ってくるのは当然のことである。

 ルールが哲学カフェの運営の基底に位置付けられるのはそのとおりである。ただそのルールの上に、ルールとは若干区別されるものとして、「マナー」や「楽しむためのヒント」などが指摘された。①ルール、②マナー、③楽しむためのヒント、これらを貫くものとして、哲学カフェの場における「気づかい」というものの大切さに行き着いた。

 

 さて、一方で「ルール不要論」というものはあるだろう。対話に熟達していたり、その場にかなり馴染んでいたりしたら、ルールというのは言わずもがなである。ルールを意識しない方が対話はスムーズに展開している感じになるだろう。

 しかし、初めて哲学カフェに参加する人や、まだ哲学カフェに慣れ親しんでいない人たちにとって、ルールは土台となるものであり、安心の基盤でもある。常連の参加者にとっても、基本に戻れるところとしての意味はある。

 ルールだけで哲学カフェが行われるものではないことは明白であるが、ルールの影響は大きいので、ルールについては今後も考え、時には(縮小・廃止なども含めて)変化させていきたいものという認識に至った。

◎参加していた、いちろうさんのコメントが面白い。 https://www.135.jp/2017/05/07/tmeta/

【第9回】テーマ  「お前、それはないだろう!?」

 

2017/4/2 開催記録(中畑邦夫)

 

進行役 中畑邦夫(竹林茶話会 哲学Cafe@柏bamboo)

参加者 8名

 

まず、今回このような人騒がせな(?)テーマであったにもかかわらずお集まりいただいた皆さまに、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

今回、開催に先立ってテーマをお知らせする際、以下の説明文を付しておきました。

 

「ファシリテーターは見た!対話の場にやって来た、信じられない人々!? ファシリテーターや主催者の立場から見た、『困った参加者』『嫌な参加者』などなどについての、驚き、戸惑い、怒り、等々を、率直に語り合いましょう。 具体的なエピソード必須。イイ人モードお断り。」

 

このようにお伝えしたからといって、対話の場を悪口や陰口の場にして、ファシリテーターや主催者の日頃の鬱憤晴らしをしようだとか、そういった意図のもとにこのようなテーマを設定したわけでは、もちろんございませんでした。そうではなくて、ファシリテーターや主催者にとっての「困った参加者」や「嫌な参加者」とはどのような人たちなのかを敢えて語り合うことにより、次のような二つの発見がなされるのではないかと、私は期待していたのであります(そういうことであれば、このような人騒がせなテーマにせずとも他に表現や方法はあったのではないか、といったお声が聞こえてきそうですが……そこはひとえに、育ちの悪さ、粗野な性格、文学的才能の欠如等々、まったくもって私の不徳の致すところでございます)。

 

1 他のファシリテーターたちや主催者たちにとっての「困った参加者」や「嫌な参加者」のあり方が、対話の場への参加者としての自分自身に当てはまるかもしれない。そのことに気が付けば、もしかしたら、対話の場へ参加する人たちへのファシリテーターや主催者としての立場からの観方が変わるかもしれない、あるいは少なくとも、ただ「困った」だとか「嫌だ」だとか感じるだけ、ということはなくなるのではないか。

 

2 ファシリテーターや主催者として「困った参加者」や「嫌な参加者」のあり方を明確にすることにより、逆に、そのファシリテーターや主催者にとっての理想的な対話の場がどういったものであり、また、ファシリテーターや主催者としてどのような事態・どのような人々から対話の場を守りたいのか、といったことも明確になるのではないか。

 

私自身は、今回の対話への参加者の皆さんお一人お一人がこのような発見をし、さらには今後、自分たちの対話の場をより良く運営してゆくための手がかりを得ることが出来れば、「大人向けの哲学カフェ・哲学対話の運営に関心がある人たちが集まって、哲学カフェ・哲学対話について情報交換や対話をします」という、この東京メタ哲学カフェの指針に、私のこのような意図は相応しいものであると、そのように考えました。

 

特に上記「1」にかんしては、参加者のあり方への批判が我が身に降りかかってくるかもしれない、つまり、今回の対話においてファシリテーターや主催者であるとはいえ「無傷」ではあり得ないかもしれない、ということにもなり得たわけですが、むしろ敢えて「傷」を負い、お互いに反省すべき点に敢えて目を向けあい、改善のための手がかりを得る、といったことが出来れば、そういったことこそ「哲学カフェ・哲学対話の運営に関心がある人たち」の集まりに相応しい、また、そういった集まりでなければ得られないような成果、なのではないでしょうか。そして今回のテーマへの補足的文章の中に「イイ人モードお断り」という文言を入れたのも、何の遠慮もなく率直に語り合わなければ「敢えて傷を負う」ということにはならないのではないか、と考えたからであります。もっとも、この東京メタ哲学カフェの参加者の一人のある方が「遠慮なく率直に語り合うという姿勢こそが対話の場の成立条件である」といった主旨のことを常々仰っておられ、もしも対話の場というものがそもそもそのようにして成立するものであるのならば、この文言は蛇足であった、ということになりましょう(ただ、さらに蛇足ながらつけ加えさせていただきますと、後日、私自身が主催する対話の場において、まさに「イイ人」が集まってしまうということ自体が「対話」の成立を阻害するのではないか、といったことが語り合われまして、対話の場において「イイ人」であることがもたらす弊害については、あらためてじっくりと考えてみる必要があるかもしれないと、そのように感じている次第であります)。

もっとも、今回、皆さんの参加者のあり方への御批判を聞いていて最も耳が痛く、また最も赤面し、そして最も反省すべき点に目を向けることになり、さらに全身「傷」だらけになってしまったのは、提題者であり進行役である他でもないこの私自身であったようですが……。

 

 さて、以下ごく簡潔に、対話の内容の報告です。

 

まず「1」にかんして、特にどのような参加者が「困った参加者」や「嫌な参加者」であるとされたか、ということについては、ここでは申し上げません。ただ、たとえば個人名を挙げて非難するといった具体的な語られ方はしなかった、ということだけはお伝えしておきます。それどころか、具体的な出来事を一切明かさずに高度に一般化して語って下さった方々もおられ、その御説明の見事さに私などは誠に頭の下がる想いでありました。

 

そして「2」にかんして、特に「理想的な対話の場」ということについて、ある参加者の方のご提案をもとに、非常に有意義な、そして、ファシリテーターや主催者であれば誰にとっても一つの指針となり得るような対話がなされました。そのご提案とは、対話の場を「困った参加者や嫌な参加者から守る」という方向で考えるのではなく、むしろそういった参加者をもいわば「取り込んでゆく」かのようにして対話の場そのものを「成長」させてゆこうという方向で考えてはどうか、というものでした。もちろん、「ホスピタリティ」の精神に基づき、対話の場をそのような方向で運営してゆこうとしても、ファシリテーターや主催者、さらには他の参加者には思いもよらないような「困った参加者」や「嫌な参加者」が現れる可能性は否定できません。しかしながら、どのような参加者であれ、わざわざ対話の場に足を運んでくださる方々を「歓待」すること、そして対話の場をより良いものにしてゆこうと努力し続けることは、ファシリテーターであれ主催者であれ、対話の場を設ける者の最低限の義務であるのかもしれません。

もっとも、対話の場を「成長」させてゆこうという発想は、対話の場というものがそもそも「開かれた場」でなければならないのか、あるいは「閉ざされた場」であらざるを得ないのか、といった問題とともに、深く検討してみなければならないのかもしれません。対話の「場」の成長とは、具体的にはファシリテーターや主催者も含めた参加者の成長でもあるとすれば、参加者がある程度固定してしまう(いわゆる「常連化」)といったことも含めて、対話の場がある程度は「閉ざされた場」であらざるを得ないということになるのかもしれず、対話の場が「開かれた場」でなくてはならないという考え方と対立するのかもしれないからです。しかしながら、この問題について私見を述べることはここでは控えさせていただきます。いつかぜひ、皆さんと語り合ってみたいものです。

 

ところで今回、ある参加者の方から「『困った参加者』や『嫌な参加者』が対話の場に存在してしまうのは、その場の『ルール』が不十分であることが原因なのではないか」といった主旨のご発言がありました。次回の東京メタ哲学カフェのテーマは「たまには、哲学カフェ(対話)の“ルール”について話してみませんか?」であり、次回も続けて、今回話題となったことについても再び語られる場面があるかもしれません。以上、次回進行役の齊藤充さんに「バトン・タッチ」をして、私からの報告の結びとさせていただきます。

第8回】 「哲学カフェにおける哲学性とか哲学対話って言うけど、それってなに?

2017/3/5 開催記録 (論理性より感覚重視:比良)

参加者 8名

 

1、テーマ選定経緯と目論見

前回、#7【哲学カフェ相互の交流/協働にはどんなあり方が可能か?】 において、参考論文「哲学カフェにおける対話と哲学性」を使い、精緻な読み込み、深い対話の会に参加し、その場ではそれなりの納得が多かったものの、まだ残るつかみどころのないモヤモヤを、対話を通じてすこしでもスッキリとしたい!

 

そのため以下を通じて、哲学カフェにおける哲学性とか対話といったものが、少しは見えてくると考え、スタート。

 

①哲学カフェに参加したことがない人に、哲学カフェをどう説明しているか?

②「一般の対話会」と「哲学対話を行う哲学カフェ」の差異はなにか?

 

《以下、対話の大きな流れ》

2、「一般の対話会」と「哲学対話を行う哲学カフェ」との差異と言う前に、「一般の対話会」のイメージがわかない

との大多数の意見

 

「話し合い」を「会議等」、「対話」、「会話」、「おしゃべり」などに分けて、掘り下げ。

①会議等   ⇒ 目的:共通理解、前提;結論ありき

②対話    ⇒目的:真理をめざす、前提:結論ありきでない

③会話    ⇒ 目的:さまざま、前提: 結論をださない

④おしゃべり ⇒目的:おしゃべり自体

 

 

 

 

3、要因別の整理の方法がいいのでは

 

そこでの対話

「哲学対話を行う哲学カフェ」と「会議等」の差異の整理は書けるが、

対話のなかでの「一般の対話会」と「哲学対話を行う哲学カフェ」との差異がまだわからない

 

「哲学対話を行う哲学カフェ」は論理性重視、

でも、感情重視の哲学カフェもある。

 

⇒論理性重視は違和感あり

問いから答えを求めるために論理というツールを使うといった感じ。

 

※となると、「一般の対話会」は、論理というツールを使うことがほぼない会のことか?

と感じている頃に残り10分程度。

 

4、哲学カフェの説明資料を作りたいとの密かな目標への展開の時間なし。

 

⇒本間さんが以前作成した 別添「哲学カフェとは何か」を参考に配布。

(出来すぎで議論が深まらないため、進行役の私が、出すなら最後でとお願いしてあったもの)

 

 

5、タイムアップ:みなさんからの感想・新たな問い

▽哲学対話において感情に対する重きをどうするか?

▽感情は論理で探求できないか?

▽対話(一般)の例を自分でもう少し考えたい。

 

▽論理というツールの使い方 私として、どう使うか

 

▽食べ物、飲み物の意味?(哲学カフェにおける)

▽「哲学」のひろがり(含「感情」)→(「論理」)

▽即興性、その場のメンバーによる。

 

▽哲学カフェと呼ばなくても 哲学カフェ的なことはやるのだろうな~!

 

▽どんなルールなら哲学対話になりやすくなるのか?

*できるだけシンプルな

 

▽普遍性・真理を求めるって具体的になんなんだろう?

 

【第7回】東京メタ哲学カフェの開催記録を当日の進行役だった芹沢さんに書いてもらいました。【哲学カフェ相互の交流/協働にはどんなあり方が可能か?】

20170205 開催記録

参加者:14名

参考資料:武田(2007)「哲学カフェにおける対話と哲学性」

 

10年前に書かれた、国内での哲学カフェ活動を扱った最初期の頃の論文の一つ。この論文では、哲学カフェという新興の取組みがいかなるものであるのかについて、

1、哲学カフェという場で行われている対話とはどのようなものか

2、それは如何なる意味で「哲学」という名称を冠しているのか

3、哲学カフェはその話された内容よりも、参加する、居合わせることに意味がある。それはなぜか

などの点から考察している。

 

こうした哲学カフェの取組みが根付き、本論文の執筆時点から10年が経過した現在、われわれ在野の運営者が取り組んでいる個々の実践は、どれだけ変化(発展)しているといえるか。あるいは、まだまだ弱い点はどこであるのか。そしてなにより、在野での実践から生まれる経験知・臨床知にはどんなものがあるのか。われわれの活動の「現在地」を俯瞰する一助とするため、本論文を取り上げた。

 

論文要旨;

通常の対話ではなく“哲学カフェにおける対話”のなかにこそ哲学性がある。ではその“哲学カフェにおける対話”が備える哲学性とは具体的に何か。

《哲学性》とは→ 「内省」=自分自身との対話、「自分の考え」を対象化すること、である

この《哲学性》は、「場所」と「他者」の力を借りることで、自分のひとりでよりも、“容易”に、“明確”に、“別様”に、内省を促されることができる。この2つの力と、3つの要素が織り成すものとして“哲学カフェにおける対話”がほかの世間一般と対話とは異なる魅力を有するものだと考えることができる。

 

ではこの論旨を受けて、ここで出された見解をさらに押し進める、あるいは批判的に乗り越えるために、次にどんな問いを立てることができるだろうか?

 

▽(結局)哲学カフェにおける哲学性って何だろう?

▽哲学カフェに哲学性って必要か?

▽問いについての普遍化と、自分化(内面化)って?

▽「共謀罪」と対話の場の関係性を、どう接続して考えられるか?

▽どういう哲学カフェがダメか? その良し悪しを仕切る枠はなにか?

▽哲学性よりも刹那性(楽しい)の方が大事なのでは?(楽しい、だけじゃダメなの?)

▽哲学カフェの失敗ってなんだろうな?

▽場の趨勢をしめる発言と、途絶したり脇に追いやられた発言という落差をどう考えたらいいか?(対話の流れからこぼれ落ちた発話をどう拾い上げるか?(そうした発言に潜む価値はなに?)

 

(以下、作業メモ)

これにあわせて、出席者にはアンケートを行った。

a)、本論文および討議の意見や感想、疑問点

b)、自身の運営(ないし参加)している哲学カフェについての振返りと展望

⇒ これらa,bを含むアンケート結果については時間をかけて精査・考察し、次回開催の下敷きとしたい。

 

【第6回】1月8日開催の第6回東京メタ哲学カフェについては、「philosophy 愛知」の方が概略的な報告をしてくれているので、私はキックオフトーカー&ファシリテーターとしての感想やその後考えたことなどを書きます。(以下「である」調になっています。本間正己)

 

第6回東京メタ哲学カフェは、内容上、運営上、いくつか反省点もあるが、キックオフトーカー&ファシリテーターをやった本人は相当に満足している。なぜならば、自分が今関心のあるテーマを取り上げているし、ここで出てきた話は自分の哲学カフェの実践や自分の考えの深化に生かせると思うからである。(このことからしても、他の人もいつかぜひ東京メタ哲学カフェのキックオフトーカー&ファシリテーターになってみてください。)

 

東京メタ哲学カフェの「メタ」は、今のところ「哲学カフェ」のメタになっていると思う。「哲学」自身をメタするということはあまり考えられていない。私などは「哲学」をメタすることはとても難しいことで、当面はあきらめている。もちろん、これは当面のことではあるが……。

 

それで、その哲学カフェのメタだが、ひとつは哲学カフェの限界に関心がある人たちがいる。哲学カフェそのものに多少疑問を感じ、哲学カフェの意義や社会的役割などがしっくりきていない人たちである。これらは当然ながら、哲学カフェを運営していない人たちに時々見られる。

一方で、哲学カフェの限界を感じながらも、哲学カフェの実際の運営上の課題や工夫に関心が高い人たちがいる。これらは哲学カフェを現実に運営している人たち、又はこれから運営しようとしている人たちに多い。

両者は関連している。実際、哲学カフェの運営者で、哲学カフェの限界を常に意識している人も多い。そして、両者とも重要なテーマである。

しかしながら、この両者は対話のテーマとしては一応分けて、対話をしていく方が分かりやすいかなぁ、とも今回思った。

 

さて、今回のテーマ「なぜ私たちは哲学カフェで哲学するのか?」についてである。これは「哲学」とは何ぞや、ということではなく、一般的に哲学カフェで行われている哲学っぽいこととは何か、ぐらいのニュアンスである。

このテーマ(問い)に対する答えとして、「楽しいから」というのが必要十分な答えのような気もする。それぞれの哲学カフェにとっては、「人間的な成長のため」、「人生の幸福を考えるため」、「人々が連帯するため」といったものでもいい。しかしながら、もう少し考えてみたい。

 

哲学カフェを「複数の人たちがテーマ(問い)について対話すること」とシンプルに定義することは、私は好きである。集まる人たちは日頃の役割や慣習、経歴などからできるだけ離れ、自由になって対話をする。哲学カフェにいる間は、それらの人たちを私は「哲学人(てつがくびと)」、あるいは「対話人(たいわびと)」と呼びたいくらいである。

哲学カフェにおいては、参加者はみんなでまずは「普遍化」を行う。この場合の「普遍化」とは、テーマ(問い)に対して、みんなが納得できる答えを見つけようとすることぐらいの意味合いである。この定義からしても、普遍化は、自分一人では不可能であり、複数の人(みんな)がいなければできないことである。また、哲学カフェにおいては、この普遍化への目標と過程がないと、やはりつまらないと私は思っている。

そして、その上で哲学カフェにおいては、「自分化」という過程がある。「自分化」とは、テーマを自分に引き寄せて、他者と対話をしていく中で、自分の問題として考えるということである。そこには「内省」ということが行われている。それは他者がいないと自分は分からない、ということにもつながる事柄である。だから、複数の他者がいる哲学カフェは意味がある。

この「普遍化」と「自分化」の往復運動が哲学カフェの中では絶えず行われている。このダイナミックスが哲学カフェの醍醐味であり、面白みである。以上が「なぜ私たちは哲学カフェで哲学するのか?」という問いに対する、私の当面の答えである。

 

【第5回】「空気に流されず、対話するにはどうする?」報告と感想

 

 2016年12月4日(日)13:30~17:00

 場所:東京都新宿区大久保地域センター

 対話するのが困難な状況に陥ったとき、主催者/参加者としてどうするか。

 各人が実際に体験した困った状況を共有し、そのときどうしたか、

 どうすればよかったかなどの情報交換をしてから、テーマについて対話します。

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 このテーマにした理由は、自分自身、流される習性がなかなか拭えないのと、それによって思いもよらないアイディアが生まれる可能性を摘み取りたくない、そのために何をしたらいいのか探めたかったためです。

 

 はじめに各人の対話が困難だった状況を上げ、空気ができあがるのはなぜか、どうして空気を作るのか、空気とは何であるかを話しました。

 

 対話が困難だった状況として上がったのは、知識がある人たちや常連など内輪で話が進んでわからない。一方的に自説や知識を話す。役所でのやりとりなどです。空気ができあがってしまったときに、それを破るにはどんな方法があるか。誰が空気を作るのか。空気をよくないものとして話しているなか、空気や流れを作ることは悪いことではないという意見が出ました。対話はこういう態度で臨むという雰囲気が、対話を深めることに繋がるという理由です。

 

 空気に「乗る」ではなく「流される」という表現には、言いたいことがあるのに言わないという心理が表れているのでしょう。空気を作りたい理由は、空気のせいにしておけば間違わなくてすむから。正しい自分でありたいという欲望ではないかと考えました。でも正しい=多数と限らない。違いに立ち向かうための言葉と態度を培うには鍛錬しかないのかもしれません。

 

 終わったあと、男女の力関係についてちらっとコメントをもらいました。上下や多数派少数派の力関係のなかで対話を深めるには、細やかに拾う感性が必要だと感じました。

 

 対話の実験室@公-差-転

 佐野佳子

 

【第4回】 東京メタ哲学カフェの 報告です。   

報告 古川 京

実施日 : 11月6日(日)13:30~17:00

会 場 : 東京都新宿区立新宿消費生活センター分館 会議室

テーマ : あなたがめざす哲学対話とは     

 進行役 : 古川 京(新橋「夜の対話カフェ」主催) 

 

 哲学対話を主催者3名、主催予定の2名の計5名が集まり、次の4つの問いに従う形で、哲学対話に

関する認識、それぞれの考え、その方向などについて意見交換と問いを出し、答えを考えながら、これ からのそれぞれの活動の為のヒントを探した。

  

問1 哲学対話がブームと言われる動きは、哲学対話に何を期待していると思うか 

答 まずブームの実態について、解り易い哲学書の出版、哲学カフェ紹介の新聞記事が目立つこと、哲 学対話初参加の人がポツポツ来る、といった事実を挙げ、その内容を捉え還した。  社会からの要請では、社会の不透明感への対応、教育界のニーズ、など話題となったが「対話」につ

いては、SNSなどコミュニケーションの形の変化が、対話に参加し易い下地を作っているのではない

かとも思える。また、ブームの様に見える動きは、東京など大都市圏にはあるだろうが、札幌では見ら れないという話も出された。

  

問2 社会からの期待を反映していると思われる、参加者が多い、初参加者がいる、全体的対話の盛り上がり、

アンケートの評価、次回への期待、などを評価指標とした場合、主催する哲学対話は何を重視しているか 

答 ここでは、別に用意した資料を参考に、哲学対話が重視していることについて考えた。 資料は、民間の哲学カフェについて、例えば先の哲学プラクティスやその他の機会で配布したもの、 あるいは SNS に掲載されたもの などから抜粋し纏めたものである。  そこでは、いわゆる「在野の市民カフェ」が、社会からの要請としてある教育的効果の期待からの距

離を置き、むしろ“その喜びや「楽しさ」を感じる機能”を志向する面と、喜びや楽しさを感じながら

も“普遍的な真を求め、あるいは社会との関わりを再認識し民主的参加の仕方を学ぶ教育的効果“を志 向する面の、両面があることが確認された。  その上で、市民カフェの主催者としてはどちらに重点を置くかという話題になった。しかし参加者が

「楽しめた」と感じても、共に問いを出し答えを考え、 “普遍的な真”に近づく手がかりを見つけようと

する楽しさでなかったり、「難しくて良くわからなかった」という結果では、「哲学カフェ」にならなか ったことになる。哲学カフェである以上、いずれも不可欠な要素と考えねばならない。

 

問3 その為に、テーマ設定、広報の仕方、ファシリテーション、アフターフォロー迄の一連の活動を、マーケティ

ング的視点によって操作することをどう思うか  

答 この問いに対しては、当然のこととする声が大きかった。実際に、ウケるテーマ、SNS で多くの人 に興味関心を持ってもらえるような配慮、サラリーマンや高齢者など対象を意識した準備や運用をして

いるという話が出された。この(東京メタ哲学の)メンバーがもっと広がれば、より実践的な話題が紹 介されるようになると思う。

  

問4 問3迄をふまえて、主催する哲学対話の当面の課題は何か  

答 参加者それぞれの立場で、次のような意見が出された。 「楽しさを意識しながら、人数も拡大したい」 「当日参加者からテーマを出してもらい、話し合って決めるやり方をしてみたい。」 「哲学対話を開催して欲しいとの声に、まだ応えられない状態」 「主催するならテーマを話合いで決める形、参加するならテーマが決められている形がいい」 「知らず知らずのうちに哲学に入れるような対話をやりたい」 「テーマ決めや運営の仕方など、相談できるスタッフがいるカフェは羨ましい。いずれ作りたい」 

 

おわりに

 今回は、哲学カフェの状況とそのあり方を考えるという、哲学カフェ主催及び関係者による対話の場 (=東京メタ哲学カフェ)に必須の問いをテーマとした。 参加人数は少なめだったが、情報交換や対話は非常に有意義だった。それは対話の為の準備に始まり、

参加者の皆さんと一緒に考え発言しあう事による理解の深まりによる所もあるが、哲学プラクティスや 立正大学での対話イベントの関する資料がそれ以上に役立ったように思う。  以降、対話を深めるための手段として、この様な資料を適宜使って行きたい。 以上

 

【第3回】東京メタ哲学カフェ(10月2日)のキックオフトーカー&ファシリテーター役を担ったいちろうさんから、当日の記録・感想をもらいましたので、以下に載せます。

 

この日は、7名の哲学カフェ主催者が集い、「哲学カフェの楽しさと危うさ」をテーマに哲学対話をしました。

 この日は僕(いちろう)が進行役でした。

 進行役と言っても、皆さん慣れてるので進行役なんて不要でしたし、哲学対話自体について話すのに変に仕切ってしまうのもおかしいので放任状態でした。

 こんな進行役でよかったのかな。

 

 実は、先日、哲学プラクティス連絡会という、学会のような、文化祭のような不思議な集いがあり、

 (学会と文化祭という全く違うものが結びついているところに不思議さがあります。)

 そこで、このテーマについてのアンケートもとったので、そちらも参照しつつ進みました。

 

 備忘録的に書くと、

 

 まずは、いわゆる大学の中の哲学研究者にとって哲学対話は危ういものなのか、

 アジール(駆け込み寺?)としての哲学対話の場は、その組織にとって危ういものなのか、

 といった哲学対話というものの位置づけの危うさが議論となりました。

 そこから話が動き、哲学カフェの参加者にとっての哲学対話の危うさ、

 特に「変わる」ということの危うさ、そしてその魅力についての話になりました。

 

 そこで、どういう哲学対話が「よかったなあ」と思える哲学対話だったのか、

 どうすれば「よかったなあ」と思える哲学対話になるのか、という話になり、

 進行役の良し悪しもあるが、参加者によるのではないか、という話になりました。

 この流れだと、次は当然、ではどういう参加者がよい参加者なのか、という話になるはずで、

 進行役としては、愚痴大会にならないかと少しハラハラしたのですが、

 そうはならず、

 「進行役の、恐る恐る周りをうかがいながら進めるような態度が伝染し、参加者も周りをうかがいながら参加してくれているので、良い感じになる」

 という展開がよかったです。

 やはり、少なくとも一部は、進行役にブーメランが戻ってくるのかな。

 この、想定した方向に話が進まず、ときに逆流するところのも哲学対話の魅力ですね。

 

 また、この流れの中で出た、「進行役によって対話の場の安全性の確保についての考え方に大きな違いがある」という話が面白かったです。

 僕は、正直、哲学対話の安全性という意識が低く、 僕にとって面白く話が展開すれば、少々不満を持つ参加者がいてもいいじゃん、と思っていたけど、

 そうでもない方が多かったのが興味深かったですね。

 その違いが大きく出るのが、対話のなかで、わからなくなって話についていけなくなった人への対応なのだろうと思います。

 確かに、理想的には全員の了解を得て、全員がついてこれていることを確認してから話を深めるべきだけど、そうすると、話の展開が遅くなりすぎる。

 どこまで細やかに参加者のフォローをするのかは、その進行役によりけりで、ある種のトレードオフ関係にあると思っていたけど、

 ある主催者の、「進行役が参加者にどこまで誠意をもって対応するかどうかの問題」という発言にハッとしました。(そこまで言ってなかったかな。)

 もし、今後、進行役をすることがあって、僕っぽく、荒っぽく進めることがあっても、参加者への誠意は忘れないようにしたいなあ、と思いました。

 

 全体を振り返ると、哲学カフェの主催者の中にも、哲学対話について、哲学から捉える人と対話から捉える人の違いがあることを強く感じました。

 (僕は、かなり哲学から派)

 

 こういう、まさにメタ哲学対話とでもいうべきテーマについての進行役を、哲学対話の先輩方を相手に行わせてもらい、

 さらに、そのなかで、いわゆる哲学対話らしい進行役をしないという実験までさせてもらえたのは、とても貴重な体験でした。

 皆さん、進行役が仕切らなくても、それぞれ、自分なりの哲学対話のルールに則って振る舞っている感じが面白かったです。

 勝手に、手を挙げたり、コミュニティボールを使い始めたり・・・

 

 最後の振り返りで、「哲学対話に”超”関心がある一個人としての話と、哲学対話の主催者としての各論的な話と、どっちなのか話が拡散してしまった」

 という話があったけど、こうまとめてみると、今日の話の中でも、色々な切り口があるように思えますね。

 アジールの話ももっとしてみたいです。

 今後、末永く、こういう活動が続き、色んな観点で話せたらいいですね。

 

【第2回】東京メタ哲学カフェは平成28年7月3日(日)13:30~17:00に新宿区高田馬場で実施された。

 参加したのは、人生カフェ、ねりまの哲学対話“ねりテツ”、ヨコハマタイワ、対話の実験室@公-差-転、夜の対話カフェ、あたまの中を散歩するてつがくカフェ、対話カフェTokyo~Yokohama 、竹林茶話会、はなこ哲学カフェ、その他の11の会、合計12名(男性8名、女性4名)である。お子さん2名も一緒にいた。

 前半は、自己紹介、会の紹介などを順番に行った。これによって、はじめての人との顔合わせ、お互いの活動の情報交換ができ、自らの会の運営の参考とした。

 後半は、「哲学とは?対話とは?哲学対話とは?」というテーマである。

哲学カフェとは哲学対話を行う場と一応定義できるわけだから、最終の問いは「哲学対話とは?」ということである。だが、まずは「哲学とは?」と「対話とは?」の2つの問いに分け、参加者それぞれが自分にとってのとりあえずの答えをフリップに書いてもらった。(同じ番号は同じ人が書いたものである。)

「哲学とは?」

① 1から問い、考え、普遍性を探求すること

② 本質を追究する学問

③ 対話をとおして、(1)気づきを得ること (2)知を深めること

④ 自身の価値観のこうちゃく化を防ぐためのゆさぶりである

⑤ 反哲学

⑥ ギモンから真理をさぐりだすこと

⑦ 自分 に/を 問うこと

⑧ 問いつづけること 

⑨ なぜ?

⑩ 大発見!  救いになるコトもある……カモ 

⑪ 探求している  み~つけた!! 

「対話とは?」

① 複数の人たちが異なる考えを語り合い、相互理解を深めること

② 意見の相違を根本から追究する行為

③ 多様な意見を大切にするコミュニケーション技法

④ 私にとって対話とはOS(オぺレーティング・システム)である

⑤ 一人称単数の、その先

⑥ 他者と一緒に探求する方法の一つ

⑦ 他者の考えを共有し共感すること

⑧ 話し、聞きつづけること 

⑨ (こう思ってるんだけど)聞いて!

⑩ 「分からない」事を前提として話すこと 相手への思いやり

⑪ 自分の考えがある時間

 

 世代差、男女差が出ているかもしれない。何よりも個性が出ている。

 ゆるやかにまとめてみると、行為としては、哲学では「問う」ことが、対話では「聞く・話す」が中心のようである。哲学では「原理(本質)」「論理」などが重視され、対話では「理解」「共感」などが重視されているようである。そして、対話においては、自分だけでなく現実に「他者」が存在していることの意味は大きい。

 それで、いよいよ「哲学対話とは?」である。

 哲学対話とは、「哲学+対話」なのか、「対話+哲学」なのか。哲学と対話が重なる部分を単純に指しているのではなさそうである。それではいったい何なのだろう。(実際の現場では、哲学のよさそうなところと対話のよさそうなところを自分なりに適当にミックスして運営している、それでいいのではないか、という意見があるのもうなずける。)

 「哲学→対話」(哲学から対話へ。哲学が対話を求めている)と「対話→哲学」(対話から哲学へ。対話が哲学を求めている)、この2つのベクトルが参加者の出自によって微妙に異なって現れているのを感じた。(これも実際の運営上は、哲学と対話が適宜往復運動をしており、渾然一体となっている、すなわち「哲学⇔対話」といったところであろう。)

 哲学、対話、それぞれのメソッド(方法)、テクニック(技法)の話題は、それほど深められなかった。メソッド、テクニックは、哲学や対話の目指すもの(目的)とどう関わるのか? そもそも哲学対話においてメソッドやテクニックはどれほどの意味合いがあるのか?

 

 哲学カフェらしく(?)、もやもやのまま終了した。これが次回以降につながるエネルギーとなる。

 

【第1回】

平成28年4月17日に初めての「東京メタ哲学カフェ」を開催することができた。東京圏の大人向けの哲学カフェ(主に新興の哲学カフェ)の運営者とこれから哲学カフェを運営したい人たちが集まった。

各哲学カフェの紹介から始まり、その後いくつかのテーマについて対話をした。①哲学カフェ参加者の動機 ②求められるファシリテーターの資質 ③ケア的哲学カフェ

哲学とは?対話とは?哲学対話とは?といった根っこのところにかかわる対話もできたのはよかった。

3時間半の時間があっという間に過ぎた感がある。

その後の懇親会(情報交換会)をガストで行ったが、それも3時間半、楽しかった。

 

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